猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

労力をかけて自然から取得すれば自分の「財産」になる

 さて、ロックのばあい、自然の状態で(つまり、人間どうしの約束ごとがとくに存在しないばあい)「これは自分の財産だ」と主張できる根拠は、「自分の労力で手に入れたこと」です。森の木の実はだれのものでもないけれど、それをもぎ取って自分のものにしたら、それは自分のものになる。「木の実を見つけて、もぎ取る」という労力を使ったからです。土地を耕したばあいもそうです。土地を耕すという労力を使ったのだから、その収穫は土地を耕した人の「財産」になって当然だということになります。土地を耕すことを通じて、その土地も「財産」になります。神様は一人ひとりの人が生き延びるために必要なものを用意しているのだから、それを自分のところに取りこむという労力を使えば、それは当然に「自分のもの=財産」になるというわけです。
 たまたま通りかかった木に実っていた果実をもぎ取るのと、畑を一年かけて耕すのとでは、ずいぶん「労力」に違いがあるように思います。けれども、その「労力」の量の差は、自然から果実や穀物を取得するという段階では問題になりません。自然の状態では「自然と自分」という関係しかとりあえず考えないからです。同じ木の実をたくさんの人間がほぼ同時に見つけて取り合いになるとか、同じ土地で田畑を作りたいと思う人間がたくさん出てくるとかいう状態は、まだここでは想定されていません。この段階では人間どうしの関係では「早い者勝ち」が唯一のルールです。それでは問題が処理できなくなったときに、人間は「自然」の状態から「社会」状態に移るのです。
 また、ただ野原に生えている草の実を刈り取るのと、野原を開墾して畑にして穀物を栽培して収穫するのとでは、畑にしたほうが収量は格段に多いはずだとロックは考えます。そうしたときに、畑にして増えた分の収穫は開墾した人のものになります。やはり「開墾して畑にする」という労力を使っているからです。
 こういうところは「労働価値説」的です。