猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「交易」の登場

 ただし、さっきから何度も書いている限定があって、自分で労力を使って手に入れたものでも、腐らせてしまうしかない部分は自分の「財産」にはなりません。たとえば、温帯地方で、冷蔵庫も冷凍庫もなくて、自分一人で食べる目的で「100食分の肉」を獲得しようとしても、肉が腐るまでには100食分はたぶんどうやっても食べきれないので、それは許されない。その100食分の肉のうち、腐るまでに食べきれる分だけしか自分の「財産」にしてはいけない。まあ、一食で10食分、一日5食で2日で食べきる!――という自信があれば別かも知れませんが。でもそれは「生き延びるために必要」というのとはちょっと違うようにも思います。
 けれども、やっぱり前に少しだけ書いたように、自分の役に立たなくても、他人が生き延びるために役に立てばいいのです。100食分の肉を99人に売って、99人に食べてもらい、あと1食は自分で食べるというのでもいいし、100食分全部売って、米のようにもっと長持ちする食べ物を買って蓄えておいてもいい。
 ここで、ものを交換するための媒体として貨幣が登場します。そうやって、「自分自身の労力で自然から取り入れたもの」以外のものを、貨幣と交換することで手に入れて、自分が生き延びるための「財産」にしていく。貨幣というのはそのための媒体なのです。
 ロックは、たしかに、自分で耕しきれない、または、自分で耕してもその収穫を自分で消費しきれない土地を持つことは、神の許した「財産」の範囲を超えると考えました。けれども、その大量の収穫物を市場に出して交換し、その収穫物がだれかが「生き延びる」ために役立てば、大量の土地を持ってもかまわないのです。だから、ロックのばあい、「土地持ち」は必ず悪というわけではない。市場・交易・貨幣というものが存在するならば、その収穫を自分一人で(家族だけで)消費しきれないような土地を持ってもかまわない。市場・交易(商売)・貨幣が存在するかしないかで条件が大きく変わってくるのです。