猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「交易」がロックの貨幣論の本質である……のでは?

 ロックの貨幣論は、貨幣自体が「腐らない」ということが強調されているので、読んだとき何か変な感じがする(少なくとも私はしました)。でも、貨幣が腐るか腐らないかだけがこのロックの議論の「本質」ではない――といまでは思っています。
 短い時間で腐ってしまうものでも、交易によって、腐るまでの時間内に「人間が生き延びる」ために使い切ることができれば、それはむだにはならない。「腐りやすいもの」を大量に手に入れたとき、腐らせてしまうしかなければそれはその人の「財産」にはならないけれど、その「腐りやすいもの」(たとえば賞味期限が3日ぐらいのものを考えましょう)を交易ですばやく交換して多くの人の手に渡すことができるなら、それはその獲得した人の「財産」にできる。
 しかし、単なる物々交換では、「財産」にできるかどうかという面から見れば、その交易はまだ不安定です。まず、物々交換は、いちいち何をどれぐらいを何をどれぐらいと交換するかを交渉しなければならないので手間がかかる。だから物々交換される品物の品目も量も限られてしまう。それに、たとえば「牛肉100食分と豚肉200食分」という交換をしたところで、どちらも何食分かを消費したところで腐ってダメになってしまうので、物々交換では「必ず「財産」にできる」という保証がありません。
 けれども、その交換の片方の品物が「腐らない」ものであれば、「腐りやすい品物」でも腐らないうちにその「腐らない品物」と交換してしまえば、その「腐りやすい品物」も正当に自分の「財産」にすることができます。そういう「腐らない品物」が存在すれば、何であってもその「腐らない品物」と交換すれば自分の「財産」にすることができるから、安心して交易ができる。「腐りやすい品物」を買った人が腐らせてしまうかも知れないけれど、それは買った人の問題で、売った人がその「腐りやすい品物」を「財産」にしたのが不当だったということにはならない。だから、そういう「腐らない品物」が存在すればみんな安心して交易(売り買い)するようになり、交易できる品物の種類も量も増える。やがてたいていのものは交易=売り買いで手に入れられるようになる(=たいていのものは店で買えるようになる)でしょう。
 「腐らない品物」の存在は、どんなに「腐りやすい品物」でも「財産」にする可能性を生み出す。しかも「腐りやすい品物」を腐らないうちに多くの人の手に渡すための「交易」を、「腐らない品物」の存在が促進する。その「腐らない品物」のなかで、究極の「絶対に腐らない品物」としての「特別の地位」を獲得したのが貨幣(貴金属貨幣)なのです。
 だから、ロックの理論は:
  貨幣使用前: 腐らない範囲でしか「財産」にできない→たいていのものは腐りやすい→人間が持てる「財産」の範囲は非常に限定されたものになる
  貨幣使用後: 腐りやすいものでも交易によって多くの人に腐る前に消費してもらえればそれはむだに腐らせたことにならない→特別の「腐らないもの」=貨幣は交易の範囲と可能性を大きく広げる→貨幣の存在によって人間が持てる「財産」の範囲が無限に広がる
というふうに整理することができると思います。
 「貨幣は腐らないから貨幣でなら「財産」をいくら持ってもいい」という表現は何か奇妙に感じますけれど、「交易でこの世の資源を多くの人が有効に(=腐る前に)利用できるようになったことが、「財産」蓄積の可能性を無限に広げた」といえば、それほどヘンではないのでは?