猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「京都力」の働き

 2. 粒子の対生成と対消滅 「零点振動」というのがこれだと思うのですが、私にはよくわかりません。
 「何もない」というのは、安定しているようでいて、けっこう不安定です。ね? 私たちだって「よけいなことを考えるな」といわれたら、かえって「よけいなこと」を考えてしまうものでしょう? 自然にもそういう性格があって、「何もない空間でいる」ためにがんばるよりは、気まぐれに物質を生み出したり消したりしているほうが楽なようです。……これって、なんか論理的ではない擬人化なので、じつは説明になってないんだけど、それはねぇ、これがきちんと論理的に説明できるようなら私は「理系の人」になってますよ。できないから、こういうのを書いているわけで。
 たとえば、真空から電子‐陽電子という反粒子の対が生まれて、それがまた一つにくっついて消える。真空はそういうことを繰り返している。そうである以上、真空は「粒子‐反粒子」の対が生まれたり消えたりしていつもざわついているわけで、これも「何もない場所」とは言えなくなります。
 ちなみに、この「零点振動」で生まれたものが引っ返しのきかないぐらいに大きくなってしまうと、宇宙ができたりするそうです。
 このことを、だいぶ昔に見た宇宙論のテレビ番組では「無から宇宙が生まれるという衝撃的な仮説」と紹介していました。まあ、そうなんだろうなぁ。
 でも、仏教とか、西田哲学とかで「無」ということばが意味ありげに語られてきたのをきいてきた私たちには、たとえ仏教や西田哲学の概念をまるっきり理解していなくても、そんな衝撃的ではないよね、と私は感じるのですが、どうなんだろう? 西田哲学でいう「無」(これも素粒子物理学と同じように私の理解力を超えているのですが、その理解力で理解したところによると)って、まさに「何が生まれてくるかわからない潜在力に満ちた状態」だものね。
 西田哲学も「京都育ち」と言っていいし、湯川秀樹も京都の人(佐藤さんもそうだけど)だから、「真空」は「何もない状態」ではないとか、「無」とはあらゆるものを生み出す潜在力に満ちた状態だとか、そういう発想を促す何かが京都にはあるのだろうか?
 西田は仏教の影響を強く受けているし、湯川秀樹は、兄弟に漢学者がいるくらいだから、幼いころから漢学の素養を叩きこまれた人です。だから漢学や仏教の影響はもちろんある。でも、漢学や(「仏教」よりも広くとって)宗教の影響は、近代的な概念を理解するためにはマイナスに働くことも多い。その「近代的なものごと」の受容に耐え(湯川も西田も「近代的なもの」は徹底して摂取しているわけです)、それを突き抜けて、「近代的な考えでは説明のつかないもの」を構想するとなったときにそれに役立つ「京都的伝統」――単に「古都だけに漢学や仏教が盛んだった」という以上の「京都の潜在力」が何かあったのだろうか、と考えてしまいます。そういう「京都力」が働く以上、「京都粒子」というのがあるはずで、「京都粒子」があるなら欲しいと思ったり……思わなかったり……。
 そういえば京都も通過はしても久しく下りてないよなぁ。台湾で派手な色で絢爛に飾られたお寺やお宮を見たあとで、新幹線から東寺の塔を見ると、柄にもなく「ああこれが日本のお寺だよね」としみじみと感じる。また一度行きたいな。