猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「あるものがない」とは言えるが「何もない」とは言えない

 3. 私たちには見つけ出すことのできない何者か 私たちはこの世のなかに存在する「もの」をすべて知っているわけではありません。しかも、それは、どこか遠いところに隠されていて、何か特別な魔法と特別な鍵を手に入れれば私たちの手に入る、というものばかりではない。身のまわりにあるのに、気づかないもの――という「青い鳥」的なものがいっぱいある。でも、「青い鳥」は見つければ幸せになれるけれど、超対称性粒子とかはどうかなぁ? 見つけると幸せになれるのかな? それでノーベル賞をもらえば、幸せかも知れないけれど。
 「ダークマター」というものが宇宙に存在することがわりとはっきりしてきた。その「ダークマター」のなかには、未知の粒子があるらしい。また、「電磁力と「弱い力」は、もともと(エネルギー≒温度の高い状態では)区別がなかった」という「統一理論」や、その上の「電磁力と「弱い力」と「強い力」はもともと一つだった」という「大統一理論」を考えると、「この世にあるはずなのに、私たちが見つけ出していない粒子」というのがたくさんあることになってしまう。
 まず、エネルギー(≒温度)が低くなったときに力を「電磁力/弱い力/強い力」と分ける仕組みとしてヒッグズ(ヒッグス)機構というのが考えられる。ヒッグズ機構は「光子は電磁力を担い、W粒子とZ粒子は弱い力を担い、グルーオンは強い力を担うように」と粒子を「仕分け」するわけだから、そこで粒子に働きかける。「働きかける」というのは「力を伝える」ということです。力がなければ働きかけたって何も起こらないし、人間だから「力」がなくても「働きかけよう」とか思うわけであって、粒子のばあいは「力」がないものは最初から「働きかけ」もしない(「自然では禁止されていないことはすべて起こる」というのだそうです。これはまた考えてみたいところです)。
 エネルギーが低い状態でW粒子が電磁力を伝えようとしても、ヒッグズ機構が「ダメ!」と言って(言わないだろうけど)、禁止してしまう。「禁止する」というのは「働きかけ」だから、それは一種の力だ。力が働くということは「粒子がある」ということだから、そこには「ヒッグズ粒子」というのがあるということになる。……前はもっとさらっと書いたように思うけど、ごちゃごちゃと書くと、こんな感じだと思います。「働きかけがある→力がある→粒子がある」というわけですね。
 また、「大統一理論」を考えると、安定していつまでも存在し続けるはずだと思われてきた陽子を崩壊させる「X粒子」というのが出てきてしまう。そして、その「大統一理論」を成り立たせるためには、「超対称性」というのがあったほうが説明がうまく行く。そうすると、こんどは「X粒子」とか「超対称性粒子」とかいうものが想定される。また、(この説明がまたよくわからないのだけど)「強い力」の理論と実際を整合させるためには、理論では起こってしまう不都合な現象を防ぎ止める役割を担っている粒子があったほうが都合がよいということで、これは「アクシオン」と呼ばれています。
 このヒッグズ粒子とかX粒子とか超対称性粒子とかアクシオンとかは、あるとしても、私たちが見つけるのは非常に難しい。私たちの目に見えるところで相互作用をしてくれない、つまりその粒子と結びついた「力」を見せてくれないからです。
 ヒッグズ粒子は、「弱い力」を伝える粒子に質量(重さ)を与えていると言うけれど、その与えている現場は見ることができない。エネルギー(≒温度)の低い状態で生きている私たちは、もともと質量のなかったW粒子がヒッグズ機構によって質量を持たされる瞬間を観測することはできず、W粒子は最初から質量を持った存在として観測されます。アニメ版だと葉月がネコミミを装着する場面を見ることができず、葉月はもともとネコミミを装着した状態でしか観測されない……でもすべての場面でネコミミつけてたかな、葉月? よく覚えてないし、それに、あんまりまじめに見てなかったからなぁ。
 これはアクシオンやX粒子でも同じで、アクシオンが働くとしたら「強い相互作用(強い力)」の現場でなので、それは原子核のなかということになる。それでもアクシオンを検出する方法というのは考案されているそうなのですが……これはまた調べてみます。X粒子は陽子を崩壊させるはずなので、その現場を捕まえようとして作られたのがカミオカンデとかスーパーカミオカンデとかです。でも、こちらは、その目的は果たせなかったかわりに、超新星ニュートリノを観測したことで、ニュートリノ天文学で貢献してしまった。X粒子の検出失敗については、佐藤さんがシニカルさを交えて『破られた対称性』の231〜232ページで「1984年の虚脱感」というタイトルで触れています。
 さらに、超対称性粒子となると、重力以外の働きかけを受けつけない。しかも、それが「粒子としては非常に重い(=質量が大きい)」という状態になっていると考えるわけです。粒子として重いと加速器とかを使ってもなかなか検証ができない。かといって、「重さ」(重力に引かれるかどうか)で測れるかというと、粒子一個はいくら重くてもたかが知れているので、「重さ」がわかる状態にはならない。だいたい「重さ」がわかるというのは、たいていはそのものが重力に引かれて運動の軌道が変わる(または変わるはずなのに変わらない)のが観測できるからです。ボールが落ちてくるとか、人工衛星が地球のまわりを回る(「まわりを回る」というのは、たえずその運動の方向を変えているということです。変えなかったらまっすぐ飛んで行ってしまう)とか。重力しか働かないのでは、軌道の変化の検証も(不可能ではないとしても)とても難しい。
 また、クォークと電子でできた原子が大きな「もの」を作り出すのは電磁力が働いて結びつくからです。そして、その大きな「もの」ができると、そこから逆算して一つひとつの原子の重さとか大きさとかを推計できる。でも、超対称性粒子には電磁力が働かないのだから、いつまでもばらばらのままで、大きな「もの」を作ることはない。そうなると、ほんとうに「超対称性粒子」の質量を作り出せる巨大加速器を作らないかぎり、見つけようがない。
 つまり、私たちが「ここには何もない」と思っていても、そこには「私たちの知らない何か」がある可能性が常にある。私たちは(私が考えたのではないけれど)「超対称性」というところまで考え、「何もない」と思っているところに「超対称性粒子」があるかも知れないという可能性までは考えついた。でも、もしかすると、さらに「超絶対称性粒子」とかいう、私たちの想像を絶する何かがあるかも知れない。「知らない何か」がそこには「絶対にない」とは言えないわけです。
 あ、でも、最初に書いたとおり、岩漫での新刊はないんです。これは、いまの時間にこんなものを書いている以上、「絶対にない」と言える。いや、サークルのひとがそんなことを言っていてはいけないのだけど……ごめんなさい。