猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

美化された「閉じたギリシア」

 「閉じたギリシア」の発想が、「ギリシア的なものが何でも優れており、ギリシア人は、本来、他の人びとを支配する人びとである」という「中華意識」につながるのに対して、「開かれたギリシア」の発想は、ギリシア的なものを「ギリシア本土」以外に拡大し、そのかわり「ギリシア本土」以外の文化を受け入れていこうという方向に発展します。そうして、エジプトや(広い意味での)シリア(現在のヨルダン、レバノンパレスチナなどまで含む)など、もともとギリシア文化圏ではなく、また、ギリシア人が住民の多数を占めるわけでもない地域で、ギリシアの学術や文化はいっそう発展を見せていく。
 同じ時代、「閉じたギリシア」意識の支配する「ギリシア本土」では、プラトンアリストテレスの学問の伝統を守ろうという守旧的な学問が主流になっていく。それに反発したのがローマの政治家・軍人・文人大カトーで、その後のローマの文人たちは、「現在のギリシア」を嫌いつつ、「古典時代のギリシア」の高い文化の継承者になろうとしていく。「古典時代のギリシアは輝かしい、しかし、現在のギリシアはダメだ」という、近代の西ヨーロッパ人のギリシア観が、紀元前1世紀ごろのローマでできていたというのは興味深いところです。
 著者も最後のほうに書いているとおり、古典時代のギリシア像というのは「後から作られた」という面が強い。同時代のギリシア人にとって、ソクラテスなどは、有名人ではあったけれど「変人」にすぎなかったのであって、とても時代を代表する哲学者などではなかった。著者は、アリストパネスの喜劇に描かれた、お祭り騒ぎが好きで、それぞれ勝手なことを言い合い、有名人を笑いのネタにし、深刻な対外状況すらネタにしてしまうようなアテナイ人の姿が「ほんとうのアテナイ人」に近いと書いています。たしかに、こっちのほうがいまのギリシア人にずっと近く、大多数のギリシア人の生きかたとして納得できるように私は思います。
 「閉じたギリシア」は、速くもその200〜300年後の時代から美化されてきた。また、学術の体系化のなかで、「閉じたギリシア」を語る枠組みがきちんとできてきた。それが西ヨーロッパ・中央ヨーロッパ社会が「近代」を自覚的に捉えようとしたときに、その捉えかたの一部に組みこまれた。
 これに対して「開かれたギリシア」の姿は捉えにくい。エジプトやシリアの文化と混じり合ってしまったり、新約聖書のばあいのように、他の文化に属するものの表現手段としてギリシア文化が使われたりするわけです。仏像のばあいも、仏教文化のなかに、「神の像を造るのはあたりまえだ」というギリシア的な文化が入りこんで実現した。そういう「混じり合い」というのは捉えにくい。
 けれども、そういう部分を捉えないと、「ギリシア文明」の全体像は捉えられない。近代的なギリシア観が強調する「無知の知」(ソクラテスプラトン)とか「人間はポリス的(≒都市的、国家的、政治的……)動物である」(アリストテレス)とかいう図式からでは、やっぱり「ギリシア文明」のごく一部しか捉えられないんじゃないかと思います。
 それに、著者が強調する、「開かれたギリシア」に特徴的な「冒険心」・「英雄精神」から見ないと、ホメロスホメーロス)の叙事詩の価値観や、古代オリンピックにみられる体育への関心など、「本土のギリシア文明」の多様な側面も軽視してしまうことになるのではないかと思います。
 ところで、著者は、10年前、50歳台半ばで隠退して「晴耕雨読」の日々を送っているそうです。こういう生きかたは率直に羨ましいと思います。