猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「食べると帰れなくなる」

 「ものをもらって食べること」が意味する物語で、私が最初に思いついたのは:

 食べると帰れなくなる。
でした。
 「ねえねえ、いっしょに食事行かない? おごるからさ」「うん、いいよ」「ところでこの仕事頼みたいんだけど」……はい、帰れなくなりますね。
 私が思いついたのはギリシア神話のペルセポネーの神話でした。
 実りの女神デメテルデーメーテール)の娘だったペルセポネーが、冥府の主神ハデス(ハーデースまたはハーイデース、別名がプルートン)に無理やり連れ去られ、冥府に連れて行かれる。デメテルが消息を探り当てて追って行ったのだが、そのときにはすでにペルセポネーが冥府の食べ物(ざくろの実らしい)を食べていたので、帰れなくなってしまった。ところが、デメテルが怒って作物を実らなくさせてしまったため、地上人の福祉を考えた主神ゼウスの調停の結果、ざくろの実を食べた数だけの月はペルセポネーは冥府で過ごし、それ以外は地上に帰ってくる。その月数だけはデメテルが生産を止めるので、地上では作物が実らないのだ。
 冥府の食べ物を食べると、原則、戻れなくなる(生き返れなくなる)ということですね。
 入沢さんからは「イザナミのヨモツヘグイですね」というお答えがありました。
 イザナミノミコト(伊弉冉尊伊邪那美命)は火の神(カグツチ迦具土神)を産んだときに火傷し、これがもとで亡くなってしまった。夫のイザナギノミコト(伊弉諾尊伊邪那岐命。「イザナキ」とも)が黄泉まで追って行ったところ、イザナミは「黄泉の(かまどで煮炊きした?)食べ物を食べてしまったので戻れなくなった」と言う。
 このあとにわりと壮絶ないろんな話が続きます。私も思いついたのですが、帰れなくなった理由をよく覚えていなかったため、ペルセポネーのほうを例に出しました。
 よく調べてはいませんが、現代の「おごるからさ」はともかく、「食べると帰れなくなる」という民俗はいろんなところに分布しているのではないかと思います。食べ物の霊力への信仰もあるでしょうし、食べるというのは「いちばん取り返しのつかない贈与」を受けるということでもあるわけですから。
 ただ、このあと他の方からご指摘をいただいたとおり、この「銀河鉄道の夜」のりんごを「帰れなくなる」きっかけとして読むことができるかというと、難しいところがあります。
 この場面、じつはなかなかややっこしくて、先に乗っていたジョバンニとカムパネルラ、あとから来た青年と姉(かほる)と弟(タダシ)がりんご(苹果)を受け取る過程は:
 燈台看守がいつか 黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないやうに両手で膝の上にかゝえてゐました。
 「おや、どっから来たのですか。立派ですねえ。こゝらではこんな苹果ができるのですか。」 青年はほんたうにびっくりしたらしく燈台看守の両手にかゝへられた一もりの苹果を眼を細くしたり首をまげたりしながらわれを忘れてながめてゐました。
「いや、まあおとり下さい。どうか、まあおとり下さい。」
 青年は一つとってジョバンニたちの方をちょっと見ました。
「さあ、向ふの坊ちゃんがた。いかゞですか。おとり下さい。」ジョバンニは坊ちゃんといわれたのですこししゃくにさわってだまってゐましたがカムパネルラは 「ありがたう、」と云ひました。すると青年は自分でとって一つづつ二人に送ってよこしましたのでジョバンニも立ってありがたうと云ひました。
 燈台看守はやっと両腕があいたのでこんどは自分で一つずつ睡ってゐる姉弟の膝にそっと置きました。
 …(中略)…
 にわかに男の子がぱっちり眼をあいて云ひました。「あゝぼくいまお母さんの夢をみてゐたよ。お母さんがね立派な戸棚や本のあるとこに居てね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼくおっかさん。りんごをひろってきてあげませうか云ったら眼がさめちゃった。あゝこゝさっきの汽車のなかだねえ。」
「その苹果がそこにあります。このおぢさんにいたゞいたのですよ。」青年が云ひました。
「ありがとうおぢさん。おや、かほるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやらう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん。」  姉はわらって眼をさましまぶしさうに両手を眼にあてゝそれから苹果を見ました。
男の子はまるでパイを喰べるやうにもうそれを喰べてゐました、また折角剥いたそのきれいな皮も、くるくるコルク抜きのやうな形になって床へ落ちるまでの間にはすうっと、灰いろに光って蒸発してしまふのでした。
  二人はりんごを大切にポケットにしまひました。
 (銀河鉄道の夜・原稿の変遷 http://why.kenji.ne.jp/douwa/ginga_f.html より)
となっています。さらにややこしいことに、初期の原稿ではまた違ったやりとりになっていたのですが、それは後に述べることにします。
 なお、「かおる」は古語のとおりだと「かをる」が本来ですが、ここでは「かほる」になっています。「シクラメンのかほり」という曲(布施明)が出たとき、「かほり」はまちがいだろう、とさんざん言われたわけですが、この混用は賢治の時代には始まっていたようです。
 まず「青年」(姉弟の家庭教師らしい)が自分のぶんを取ったのかどうかわからない。また、ここではっきりとりんごを食べているのは弟(タダシ)だけです。姉(かほる)はもらってりんごを見たというだけですし、ジョバンニとカムパネルラは食べずにしまっています。だから「食べると引き返し不能になる」とはちょっと言えない。ただ、食べるかどうかは別として「もらってしまうと帰れなくなる」は言えるかも知れません。ジョバンニは帰ってきますけれど、これは「特別な例外」ということで。
 いっぽう、ここで省略した部分で、「灯台看守」が暮らしているらしいこの鉄道の沿線は「あなたがたのいらっしゃる方」と地上世界との中間地帯であることが示されます。その「中間地帯」のものをもらうと帰れなくなる、ということにはなるのかも知れません。なお、ジョバンニ(とカムパネルラ?)は、この青年と姉弟に会う前にお菓子だか鳥だかよくわからないものをすでにもらって食べています(ちなみに現代の花巻市には「よだかの星」というお菓子があります)。
 ここで「いっしょに食べること」または「食べ物をやりとりすること」、「ものをもらうこと、分かち合うこと」さらに「獲ること、収穫すること」に意味があるのはたしかなのですが、それを、たんに「この世以外の人といっしょにものを食べたり食べ物をやりとりしたりするとこの世に帰れなくなる」という意味だと解釈していいのかどうか。
 私は「そういう解釈も可能だろうけど、その解釈以外は成り立たないと考えてしまうと、かえってその解釈は内容の乏しいものになってしまう」と考えています。
 長くなったので、次回に続けることにします。

「銀河鉄道の夜」のりんご

 今朝がた(8月21日)、ツイッター上で入沢康夫さんから「問題」が提起されました。

 「銀河鉄道の夜」に、主人公ジョバンニとカムパネルラ、途中から列車に乗ってきた男の子(タダシ)と女の子(かほる)は「灯台看守」からりんご(苹果)をもらう。『旧約聖書』の「創世記」では、アダムがイヴからりんごをもらって食べた結果、楽園から追放される。このあいだに影響関係があると言えるだろうか?
 (*入沢さんの文章そのままではなく、私が手を加えています)
 (**なお清瀬ツイッターアカウントはhttps://twitter.com/felesater


 入沢康夫さんといえば、現在の宮沢賢治の文章の「決定稿」となっている「校本全集」・「新校本全集」の編集の中心になった方のお一人です。インターネットを介したソーシャルメディアがない時期には、このような方と、べつに専門家でもない私とが、じかに考えを交換する機会というのはまず考えられませんでした。もっとも、宮沢賢治学会(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)は、「専門家」と非「専門家」の垣根がない学会なので、賢治学会の大会に参加すれば、全集編集メンバーの方々とも意見の交換もできます。それはこの「学会」のすばらしいところですが、それにしても学会の時期に花巻まで行かなければいけない。
 この入沢さんのツイートに対して、私がレスポンス(@ツイート)を返したところ、入沢さんが「お気に入り」に登録してくださり、その議論にまた何人かの方が参加されました。私は午前9時前にツイッターから離脱してしまいましたが、その後も議論は続いたようです。
 そこでの私の議論をここでまとめ直してみたいと思います。
 私の最初の反応は:
 食べ物をもらう話は、世界じゅうのさまざまな神話・説話・神話に分布しており、ほかに何か証拠立てるものごとがないかぎり、『旧約聖書』から「銀河鉄道の夜」への影響があったと断定することはできないだろう。
というものでした。
 この時点では「りんご」という要素はまったく考えていませんでした。これは、聖書本文では、イヴ(エヴァ)が蛇にそそのかされてアダムに渡したのは「善悪の知識の木の実」(知恵の実)であって、りんごであるという意識がなかったからです。
 ちなみに、日本聖書協会のページで検索をかけると、「りんご」はいずれも旧約聖書の「箴言」・「雅歌」(4か所)・「ヨエル書」に出てきます。「え? あんな暑い国でりんご……?」というのが私の第一印象でした。でも、旧約聖書にもりんごは「甘美な果実」の象徴として登場していることがわかります。
 で、この場面で食べる実は「りんご」ではないことになっているので、私は「ちがうんじゃない?」と思ったのですが、西ヨーロッパではこれを「りんご」とするのが一般的なようです。
 ウィキペディア「禁断の果実」:
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E6%96%AD%E3%81%AE%E6%9E%9C%E5%AE%9F
 たしかに、ラテン語では「善と悪」の「悪」が malum (形容詞、中性)で「りんごの実」も malum (中性)でいっしょですね。変化形も同じです(第一・第二変化)。で、その「悪」と「りんご」が混同または深読みされて、もともとラテン語の聖書を使っていた地域では、この実は「りんご」であるという解釈が定着していたようです。
 なお、フランス語でじゃがいもを「大地のりんご」(ポム・ド・テール)というように、「りんご」は果実の代表で、具体的にりんごをさすとは限らないということもあるかも知れません。
 だから、もしここで銀河鉄道の乗客たちが食べる「りんご」に意味があるとすれば、それは、『旧約聖書』から直接の影響を考えるだけではなくて、もう少し広く、「人からものをもらって食べること」の意義、または、「りんご」が何を表現するかということについての文化的な「合意」(文化的なコンテキスト、「文脈」)をさぐってみる必要があるのでは、というのが私の考えでした。
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コミティア参加します/「銀河鉄道の夜」のりんご

 またずいぶんご無沙汰しました。
 仕事が、というか、仕事を含めて職場でやらなければならないことが、今年の5月、ちょうど関西コミティアに行ったころから飛躍的に増えて、イベント参加告知もままならない状況でした。このあたりの事情は、30日のコミティアで配布するペーパーにちょっと書きました。というわけで:
 COMITIA113 参加します。
 COMITIA113 8月30日(日) 東京ビッグサイト 東2・3ホール
 あ15a アトリエそねっと
です。よろしくお願いします。
 新刊は、ペーパー以外はまだ未定です。いままだ書いています。当日までに本にできるかどうか。完成したらまたここで告知いたします。
 よろしくお願いします。
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関西コミティアに参加します

 5月17日に大阪天満橋のOMMビルで開催される関西コミティアに参加します。
 F-22アトリエそねっと」です。よろしくお願いします。


 今回は「百合」分野での参加……ということになっているはずです。
 残念ながら新刊は用意することができませんでした。
 「関西初売り」の本を何点かお持ちします。


 枯れ葉と百舌鳥
 GirlsLoveFestival12〜13で刊行した短篇に少し修正を加えて合冊しました。
 紗羽は、別の学校に通う野辺地蘭の帰り道で、蘭が通りかかるのを待っていた。紗羽が蘭にかなえてほしい願いとは……?


 美しいともだち 1. 恋の療治
 美朋はよく泣く子だった。そんな美朋を輝美は持て余し気味だった。最近は輝美の気もちも変わってきていたのだが、ある夜、突然、美朋は輝美に別れを告げる。でもいったいなぜ……?
 ※ 「つづく」になっていますが、物語はこの本の最後でいったん終わっています。


 平行線の肖像
 すぐ横を通りながらけっして交わらない隣村からの道……。そこを歩く一人の少女が気になって、佳澄はその「平行線」の道へと跳び下りた。少女はこの道を歩くのは今日が最後だと佳澄に告げる。佳澄はその一日をこの少女といっしょに過ごすことに決める。


 虹の約束
 定期試験で体調を崩し、電車で予備校の高校受験講座に通うことになった綿布(ゆう)は、その電車で、いつも扉の横に立って外を眺めている同じくらいの年ごろの少女に、いつしか心惹かれていく……。


 琴音中 魔法少女部 もしも魔法が使えたならば
 魔法なんか存在しない、あたりまえの世界、その琴音市の中学校になぜか「魔法少女部」があった。お正月、その部員のしおんとみもざは、初詣に行った神社で、同級生の少女が風邪で寝こんでしまったことを知らされ、しおんはかわりに神社の売り場に立つことに。一方で、その同級生の少女は、付き添いのみもざに自分の秘密を打ち明けていた……。


 よろしくお願いします。

コミティアお疲れ様でした

 コミティア(東京コミティア)が終わって3日くらい経ちました。
 コミティア参加のみなさま、お疲れ様でした。
 今回も多くのみなさんにお世話になりました。ありがとうございました。とくに今回のコミティアは「あっ!」という間に時間が過ぎたように思います。いつも多くのイベントでご一緒させていただいている方々とも、コミティアでしか会えない方々とも、「Text-Revolutions」や「本の杜」で知り合った方々ともお会いできて、いろいろお話もできて、たいへん楽しい時間をすごすことができました。
 今回は、連休に入ってから直前まで仕事や仕事関連のイベント(もちろん即売会ではない)が入り、ばたばたしてしまいました。終わった翌日は、起きるのさえ億劫で、まあ起きましたけど、ほとんど何もできずじまい、連休明けに仕事をしている自分が想像できず、これで社会復帰できるのだろうかと思いましたが……なんとかなりました。
 次回のイベント参加は 5月17日 関西コミティア46 天満橋OMMビル 11:00〜15:30 F-22 「アトリエそねっと」 です。
 「関西初売り」は複数あるのですが、関西コミティア合わせの新刊が刊行できるかというとかなり微妙な情勢です。せっかくスペースをいただけたのでできるだけがんばってみるつもりです。
 何をお持ちできるかは、イベントが近づいた段階でここで告知しようと思います。
 よろしくお願いします。

ところで訂正

 前に「長歌」があるのは『万葉集』までで、『古今集』以後「長歌」など短歌形式以外の和歌はすたれた、みたいなことを書いたと思います。でも『古今集』読んでみたら、旋頭歌(五‐七‐七/五‐七‐七)も長歌もありますね。すみませんでした。

次は「近代」から解き放たれた人たちへ

 「佐藤通雅『賢治短歌へ』について」の第5回(とりあえず最終回)です。
 作者の佐藤通雅さんは、ご自身が歌人ですし、近代短歌史や近代短歌論にも通じておられる。そして、同時に賢治研究家でもある。それがこの本の最大の「強み」でしょう。
 佐藤さんが最初のほうに書いておられるように、近代短歌や現代短歌に関心を持つ人は、宮沢賢治にはほとんど関心を持たない。逆に、賢治ファンは近代短歌にはあまり関心がない。そういえば、啄木と賢治の関係はときどき語られるのに、啄木と賢治の比較研究というのはあまり見ない(ないわけではない)と思います。去年の宮沢賢治学会での発表で、東北の歌壇と賢治の関係を論じた発表がありましたから、これからは「短歌史のなかの賢治」という方向の研究も盛んになっていくのかな、とも思いますが。
 私もこの本から教えられるところは多くありました。とくに「近代短歌は一人称の文学である」ということには「そうだったのか!」という強い驚きを感じました。短歌をやっている人には当然のことなのかも知れませんが、私はこれまでそんなことは少しも意識しませんでした。
 そして、その「近代短歌」の束縛と賢治がいかにつきあい、賢治がその「一人称の文学」性をどうやってかわし、飼い慣らし、やがて短歌に別れを告げていったのか、ということが、作家論(伝記を含む)・作品論の両面から実証的に解きほぐされている。「近代性とどうつきあったか」ということは、賢治の短歌だけの問題ではなく、賢治に限定して考えても、詩についても、童話についても言える。賢治の個性は、「近代短歌」には合わなかったけれども、「近代詩」や「近代童話」にはびったし合った、かというと、ぜんぜんそんなことはない。詩を書いてもまた賢治は悩み苦しむことになるわけです。「これは詩じゃない、「心象スケッチ」だ」ということを気負って言ってみたり、「いや「心象スケッチ」じゃダメじゃないのか?」と悩んだりしました。童話だって、鈴木三重吉のところに自分の書いた童話を送ったら、「なんじゃこれは?」的に一発でボツにされたりしています(「ロシアでは通用するのかも知れないが」とか言われたらしい。賢治のどこが「ロシア」っぽいのか興味深いところではあるけれど)。「子どもを健全な近代人に育てるための童話」というのを期待する「近代文学」の姿勢とは、賢治の書いた童話はあまりに異なっていたわけです。まあ、このときの「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」という作品は、賢治の書いた童話のなかでも特別に「近代童話とは異なる」作品で、大人が読んでも(もしかすると「大人が読んだら」)なおわけがわからない作品だという事情はあるのですが、ともかく「近代童話」のメインストリームとは根本から違っていた。
 まあ「子どもを健全な近代人に育てるための童話」というのが「近代文学」のメインストリームなのかどうかも検証してみる必要がありそうだとは思いますけど。
 詩でも童話でも賢治の作品は「近代性」が想定する「文学作品」からはズレていたわけです。それも、たぶん、かなりズレていた。この本自体は、近代短歌の形式に収まらなかった賢治が詩や童話の創作へと移っていったところで基本的に終わっているのですが、それでハッピーエンドだというわけではなくて、「賢治文学と近代文学の葛藤」の序奏部分のように位置づけることもできるでしょう。
 この『賢治短歌へ』は、著者の佐藤通雅さんが、賢治研究や短歌研究を読み進めながら書いて行っているという流れが感じられるところも特徴で(もともと連載だったとのことです)、途中で「最近こんな本を読んだ」という話が急に出てきたりする。賢治短歌の評論を書いていないときにその賢治論や「近代短歌」論を読んでも、その内容は佐藤さんのなかではここに書かれているような響きかたはしなかったでしょう。佐藤さんの「賢治短歌」への思索が、賢治研究や短歌研究との出会いと絡み合って発展して行くようすが、「ライブ感」をもって描かれていると感じました。これを、お行儀よく、最初に「先行研究の紹介」をまとめてそのあと自説を展開する、という形式にしてしまったとすれば、この本から感じられる「熱気」はずいぶん冷めたものになったのではないかと感じます。
 さて、この本は、「賢治の短歌はつまらない」という「近代短歌」側からの発言に抗して、「いや、もともと賢治短歌は近代短歌とは違うものなのだ」ということを論証することに重点が置かれています。したがって、「では、その近代短歌という視点をはずして読んだら、どうなんだ?」という問いには十分に答えていないところもあると私は感じました。
 それがどういうところかというと、一つは、「近代短歌」より前の「和歌の一ジャンルとしての短歌」との関連です。当時の教育のなかで、賢治が「和歌」に触れる機会は多かったはずです。啄木や北原白秋だけでなく、そういう「古い和歌」から賢治が何かを引き継いではいないのか、ということは、この本ではあまりよくわからないと感じました。後に五七調・七五調を基本とする文語詩を作ることを考えれば、「古い和歌」にまったく無関心だった、あるいは「近代短歌」のメインストリームが「古い和歌」に感じる反発をただ共有していただけ、などとも考えられないのですが、その問題関心は必ずしも正面からは採り上げられていません。
 少しだけ触れたように、賢治の短歌は必ずしも「五‐七‐五‐七‐七」の字数を守っていないのではないか、という問題があって、この「古い和歌」との接しかたがここに関係してくるかも知れません。もっとも、明治の文語詩でもさまざまなリズムが試みられましたから、その影響かも知れませんし、だいたい短歌を作り始めた最初の時期というのは平気で字足らず・字余り、それも激しい字余りとかをやってしまいがち、ということもあるだろうとは思います。でも、一方で、賢治は後の文語詩では未完成作品を除いて「字余り・字足らずなし」という作風を守っています。『万葉集』の長歌をいまの私たちが読むと、五七調とかに収まっていない作品があって、「歌の古いかたち」ってこんなのだったんだな、と感じる。そういうのの影響はないのか。あるいは「訓読された漢文」の影響があるかも知れない。賢治は「訓読漢文の創作」というのを童話「二十六夜」でやっていますから、それの影響が短歌のリズムに及んでいるかも知れません。そういうことは、この本では本格的には探究されていません。
 また、賢治短歌のなかで、読者に強い印象を残す方言短歌についても、この本では「挿話」的に触れられるだけです。
 それに、「サイケな短歌」にも時期ごとに特色がある、ということは、私はこの本から大いに教えられたわけですが、「サイケな短歌」自体の読み込みが十分に展開されているとも言えないところがあります。
 頭のなかを跳ね歩いている「赤いめだま」の動物とは何なのか? べえでないのは確かとして(それはそうだ)、何なのか? 「星めぐりの歌」からすると「赤いめだま」というと「さそり」で、たしかにさそりは節足動物なので「関節(関折)」が多い(内骨格の関節ではないけれど)。それで「さそり」は「魔もの」とも書いているわけです。さそりの群体が脳の中を「跳ね歩いている」としたら、相当に気もちが悪い。でも、さそりではないかも知れない。
 そこからさらに行くと、この「さそり」にしても、佐藤さんの本にも出てくる「月」にしても、また金星にしても、すごく魔的で不吉な印象と、とても清冽で神聖な印象が、一つの題材に即して歌われることがあります。これは短歌だけではないと思います。賢治のなかでのこの「聖」と「魔」のスレスレの近さの印象というのは、もしかすると賢治の本質に近いところにあるのかも知れない。この本では、「近代短歌 対 賢治短歌」という構図が中心になっているので、そういうところまで論じつくしてはいません。
 でも、たぶん、そういう問題は、「文学における近代性っ!」みたいなものに青筋を立てていなければならないという意識からはまったく無縁な、「戦後」よりもずっと後の人たちが論じていくべき問題ではないかと思います。戦後の「前衛」も、明治後期の「近代」がそのままでは通用しないことを感じつつ、それでも「近代」にこだわったわけですね。私はよく知らないけれど。そのこだわりすらない世代こそ、もしかすると、賢治の短歌を、もっと広く言うと賢治作品を存分に論じられるのかも知れない。「戦後」を知っている世代に、賢治が生きた時代に近い、したがって賢治が生きた時代の「文学」の状況にじかに接しているというアドバンテージ(有利さ)があったとすれば、その後の世代は、むしろそれを知らないことをアドバンテージにできるのではないか。
 これからの賢治作品の読まれかたの可能性は、いろいろあるけれども、アニメとかゲームとかラノベとかに親しんだ人たちのなかで、賢治作品は新しい感受のされ方をするのではないかと思います。たとえば、眼が赤い動物の群れが脳の中を跳ね歩く、と読んで、ただちに『叛逆の物語』の一場面が思い浮かんでしまう(だって群れになって出てきたじゃない?)ような人たちのなかで、です。これは私は機会があるたびに言っていることですけれど。とくに、賢治の短歌というのは、「近代」にとらわれない人のほうがより豊かに読める可能性を大きく持っているジャンルなのではないかと思います。