猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「覇」・「権」の思想

 前にヘゲモニーの話をしたときに「覇」ということばを使った。この「覇」というのは、その人に正しい資格があるとは認められていないのに、力を使って天下を動かそうとするひとというイメージがある。正しい資格を認められて天下を動かすのは「王」であって、その「正しい資格」を欠いているのに「王」のような行動をとるのが「覇」だというわけだ。
 ところが、中国古代史研究者の平せ隆郎(「せ」は上が「生丸」で下が「力」、「隆」は正式には正字)さんによると、中国の春秋時代(紀元前8世紀〜紀元前5世紀)の「天下」の指導者が「覇」とされるのは、後の戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前3世紀)に「自分は王だ」――つまり自分には天下を支配する正しい資格があるのだと自称する支配者たちの時代に、以前の同じような指導者たちは正式の「王」ではなくて「覇」に過ぎなかったんだよと貶めるために「格下げ」された結果らしい(と私は理解しているが……)。
 とりあえず「格下げ」された後の論理で説明すると、「覇者」が出た時代には、正式に周という王朝の「王」がいたのだけれど、その「王」が支配権を揮えない状況があった。そこで「覇者」が「王者」のかわりに権力をふるって天下を治めたのだというイメージである。つまり「覇者」は「王者」のかわりにやむを得ず出てきた代打というか中継ぎみたいな存在だということになる。
 ここで連想するのが「権力」とか言うときの「権」ということばだ。漢字の原義は調べていないが、このことばは「かりの」という意味で使われることが多かった。とくに日本の律令体制の下では、「権」は「ごん」と読んで、臨時代理みたいな感じで使われた(権大納言(ごんだいなごん)とか太宰府権帥(ごんのそち)とか)。
 明治以後に翻訳語に使われて漢字のニュアンスは変わっているからツメの粗い暴論であることは承知で言うと、なんか「力」にまつわる概念の「覇」とか「権」とかにはどうも「仮の」、「本来のものではない」、「代打 または 中継ぎの」という印象がつきまとう。本来の支配は「力」なんかに頼らずに行うものであって、支配に「力」の契機が入りこむのは、ほんとうは望ましくないのだけれどやむを得ないからやってるんだという考えがその底にしっかりと居着いているように感じるのだ。だから「覇」と「権」が結びついた「覇権」なんて「ほんとうに好ましくないもの、できるだけ存在してほしくないもの」という印象がついてしまう。
 ところで、「ヘゲモニー」というヨーロッパ語には、「覇」から感じられるような「ほんとうはあってはよくないもの」という印象はないという話を、これも10年以上前に聞いたように思う。もしかするとpower系のヨーロッパ語も同じかも知れない。だから、ヨーロッパの論者が「powerとauthority」で論じているのを私たちが「権力と権威」とか置き換えてしまうとなんか誤解が生じるんじゃないかということも感じたりする。
 で、「覇」と「王」の話に戻ると、自分では正しい資格がある「王」だと思っている者が、周囲からは「覇」としか見なされないという落差はいつでも生じうると思う。また、正しい資格がある「王」に不満を持つ者が、その「王」の権威を引き下ろすために「あれはただの「覇」なんだよ」と宣伝して回るということもあり得る。
 で、そういう綱引きというか戦略的駆け引きというのは、リベラリズム的な「正義」をめぐっても起こりうる。というより、リベラリズムは利害対立のある社会を想定して成り立つ以上、リベラリズムはつねにこの手の「正しい資格」(正統性)争いに巻きこまれ、それによって傷つけられる可能性があると考えておいたほうがよい。リベラリズムだけがその対立から超然としていられると考えないほうがいいと思う。片方が「自分にはリベラリズムのこの原則に照らして正しい資格がある」と主張すれば、相手は、「その原則は認めるが、あんたにはその資格はない」と攻撃するかも知れないし、もしかすると「リベラリズムにそんな原則はない」とか「そんな原則のあるリベラリズムなんかやめてしまえ」とか攻撃するかも知れないのだ。
 リベラリズムは公正さを装っているけれども、一部の資本家や帝国主義を擁護しているだけではないか――そういう攻撃をリベラリズムは過去に社会主義から受けてきた。リベラリズム奴隷制社会とか封建社会よりはマシに見えるけど、あれは「覇」であって、社会主義が力を持つまでの「中継ぎ」に過ぎない。社会主義が出てきた以上は、「覇」であるリベラリズムはすみやかに社会主義にその地位をゆずり、消滅すべきである。そういう攻撃だ。社会主義は勢力を失い、いま生きているのはリベラリズムと調和しようとする社会民主主義が主だから、もう社会主義の(思想レベルで攻撃を受ける)脅威は消滅したと言っていいだろう。けれども、別の(たぶんコミュニタリアンな)思想からの攻撃が来ないとは限らない。
 リベラリズムの構想は、そういう攻撃への対処のしかたを最初から含んでないとヤバイのではないかと思うのだけど、どうなのだろうか?