猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

佐藤文隆『破られた対称性』について(2)

 この本の「難解」なところは、理論物理学で使う数学とかをできるだけ端折らずに(もちろん専門家の立場からいえば大きく端折っているのでしょうけど)説明しているところだ――と前回書きました。でも、逆にいうと、それがこの本のいいところでもあるわけで。

粒子の「大きさ」・「質量」とは?

 この本で新しく知ったのは、粒子の「大きさ」・「質量(重さ)」の基準についてです。
 量子力学では粒子というのは「場の状態」の一つだと考えます(と言っていいんだろうなぁ……?)。この本にも出てくる、朝永振一郎の使ったたとえでいうと、「場」の電光掲示板で電球がついている状態が「粒子が存在する」、電球が消えている状態が「粒子が存在しない」という状態に相当する。LED全盛のいまの時代では「電球」の電光掲示板というのはあまり見かけなくなりましたけど。LEDのたとえにすると、色の問題が出てきて、なんかややこしくなりそうな感じがするんですよね。RGBで色がついていると、クォークの説明には適当なのかも知れないけど。
 で、「場」が波打って(振動して)いて、その波打っているのを観測すると「粒子」のように見える。だから、量子力学では、粒子には波の性質があり、「場の波」(普通観測できるのは光とか電波とかですが)にも粒子の性質がある、というわけです。
 でも、粒子というと、ケシ粒みたいなちっちゃい球みたいな印象があるわけで、大きさというと、その堅いケシ粒の大きさみたいなのを想像してしまうわけですが。
 この本によると、ある粒子の「大きさ」というのは、「ほかの粒子がその粒子を通り抜けられない範囲の大きさ」をいうのだそうです。だから、その「ほかの粒子」が何かによって「大きさ」は変わってくる。ケシ粒だったら、たとえばごまの粒を当てても、アブラナの種を当てても、もしうまく当てられるなら(そして当たってもケシ粒が壊れないならば)サッカーボールを当てても、ケシ粒の「通り抜けられない範囲の大きさ」は変わらない。しかし、原子とか、原子の内部の原子核とかでは、そうではない。原子は、他の原子がぶつかってきたら通さないでがんばるけれど、ニュートリノだったら、ニュートリノ原子核に接近して「弱い相互作用」が働いたりしないかぎり通り抜けさせてしまう。だから、粒子の大きさは「この粒子に対してならば、大きさはこれくらい」としか決められないというのが佐藤さんの説明です。
 ただ、この話の途中で、前回引用した「粒子は波である」という説明に行ってしまうので、なんか話が完結していない感じがするのですね。
 でも、「大きさ」は、まあ、そうかな、とわからないでもない。
 新しく知ったのが、粒子の「質量」とは天秤で量れるような「重さ」ではないということです。
 まあ、どんなものにしたって「もの」は粒子が集まってできているわけで、その「重さ」のもとをたどれば「粒のような粒子」の重さが積み重なったものだろう、と思う。それはたぶんそうなのですが、では、粒子の「質量」≒「重さ」とは何かということですね。
 これは、「場」の振動(=粒子として観測される)の「角振動数」というものを考えたとき:
 (角振動数)2=(定数角振動数2+(波数)2×(光速)2
という関係が成り立ち、その「定数角振動数」の部分に相当する部分を、アインシュタイン特殊相対性理論から出てくる「エネルギーと質量の関係」の式
 (エネルギー)=(質量)×(光速)2 (E=mc2
の「(質量)×(光速)2」部分に読み替えて導き出される数値が「粒子の質量」ということになる。
 ……って説明されてもよくわかんないっ!!
 「角振動数」って何?! なんでそれが「定数」部分と波数で変わる部分に分かれるの?! それとなんでそれが「エネルギーと質量の関係の式」にあてはまっちゃったりするわけ?! ……じつは「エネルギーと質量の関係の式」との関係については「コラム」が2ページついているのですが、これも読んでもよくわからない。
 ま、つまり:
 (1)粒子というのは「場」の振動を観測したときに見えるものである;
 (2)場の振動には、「これ以上は小さくならない」という振動数がある(ない場合もある。そのばあいは「質量0」になる);
 (3)その「これ以上は小さくならない」という振動数から「粒子の質量」というのを推計する
ということらしい。そして、それを積み重ねれば、積み重なってできた大きな「もの」の「質量」の値とも一致する――ということなのだよなぁ?
 ともかく、私には長いあいだ「粒子は存在するのに、質量はゼロ」というのがよくわかりませんでした。「もの」があるんだったら、そりゃ「重さ」はあるんじゃないの、と思っていたわけです。でも、「じゃあ、光に重さはあるの? 電波に重さはあるの?」と言われたら、それは「ないんじゃない?」と思うし、だったら光とか電波とかは「光子」という粒子なんだから「光子には重さ(質量)はない」で正しいということになるし、でも光子も「光の粒」だとしたら「粒」のくせに重さはないの?――と、なんかこう堂々めぐりしてしまう。
 それを「場の振動を観測すると粒子に見える。粒子とはそういうものに過ぎない」として(ここまでは何となくは知っていたんだけど)、振動のあり方の一種が「質量」なんだとしてしまえば、だから振動に「これ以上は小さくならない」という限界がなければ質量はゼロになるということで、納得は……。
 できるかな?

「質量」のネコミミ的理解

 つまり粒子の「真の大きさ」というのは存在しない。「どの粒子に対する大きさ=その粒子を通り抜けさせない範囲の広がり」かというので判断しないといけない。
 同じように、「質量」というのも条件によって変わるわけで、たとえば「ヒッグズ粒子」というのができて、「ヒッグズ機構」というのが働き始めると、W粒子とかZ粒子とかの「粒子」はいきなり質量を持ち始める。
 私は、これまで、その粒子が動こうとすると「ヒッグズ粒子に引っかかるから質量が生まれたように見える」のだとこのヒッグズ機構を理解してきました。でも、同時に、「ほかの粒子に引っかかって生まれた見かけの重さ(質量)と本体の重さ(質量)は違うんじゃない?」という疑問をずっと持っていました。ラッシュの人混みのために歩く速度が遅くなったからといって「あんた、最近体重増えたんじゃない?」とか言われるのは心外だし(まあ当たっている場合もあるけど……)、それはまだがまんするとしても、100グラムの肉を買ったのに50グラムしか入ってない、これはどういうことだと店に言うと「いや、当店のはかりのばねが途中で引っかかって100グラムって表示されたからこれは100グラムなんです」――いや、それはだめでしょう?
 同じように、W粒子さんも「ヒッグズ機構に引っかかったから質量が増えましたね?」と言われたら、「いや、あれはヒッグズ粒子で混雑していたから動きが重かっただけで、わたしの真の重さではない!」と言いたいに違いない……と思ったり、思わなかったり。
 でも、この「定数角振動数」という部分がヒッグズ粒子の作用で変わるんだよな、といえば、まあ、少しはわかりやすい。もっというと、粒子というのは「場の振動」が観測されて見える「現象」だとすると、「ヒッグズ粒子が分布した空間」というのは「ヒッグズ場」であるわけで、それで、「ヒッグズ場でない場の振動」を観測しても「定数角振動数」は検出できないけれど、「ヒッグズ場の振動」を観測したら「定数角振動数」が検出できてしまう、ということなんだな。
 つまり、「質量」というのはモードの一つなんです。場が変わればモードが変わるんですよ。そうです! 原作では葉月がネコミミモードとは限らなかったけど、アニメになると常時ネコミミモードになるのです。原作という場では葉月は非ネコミミモード、アニメという場ではネコミミモードというわけです。同じように、ヒッグズ場でなければ(=ヒッグズ粒子のない空間ならば)Wさんは「質量なしモード」だったけど、ヒッグズ場では(=ヒッグズ粒子が分布している空間ならば)Wさんは「質量ありモード」に変わる。つまり質量とは葉月のネコミミのことなんです!
 そう理解すればいい……んだと思います。なんか違うようにも思うけど。

クォークはなぜクォークなのか?

 もう一つ、「クォーク」がなぜ「クォーク」なのかという理由も、この本でようやくわかったことの一つです。
 クォークというのは、陽子とか中性子とかいう、原子核を構成している「粒子」をさらに構成している基本粒子のことです。普通には「アップ」と「ダウン」があって、「アップ」二つと「ダウン」一つだと陽子、「アップ」一つと「ダウン」二つだと中性子になる(ここの記述、9月15日の午後まで間違ってました。申しわけありません)。陽子のほうがちょっと上向きな感じ、で、中性子はちょっとダウナーな感じ、というわけです。
 この「アップ」と「ダウン」の呼び名も、スピン(粒子として見たときの自転)の向きから決めた名まえだと前に読んだような気がするんだけど、よくわからない。だとすると、「アップ」は左回り(ねじを左に回したら上向きに浮いてくるから)、「ダウン」は右回り(ねじを右に回したら下向きに入って行くから)しかないわけ? 自転の「上」、「下」の定義もこれでよかったと思うけど……逆だったかも知れない。よくわからない。
 ともかく、陽子とか中性子とかはクォーク三つでできている。
 そして、当時は、クォークには、「アップ」と「ダウン」のほかに「ストレンジ」というのがあることがわかっていました。陽子とか中性子とかはクォーク三つでできていて、しかもクォークには三つの種類がある(現在では6種類あることがわかっています)。
 で、この「クォーク」という名が、ジェームズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』に出てくるカモメか何かの鳴き声にちなむということはずいぶん前から知っていました。
 朝永振一郎といっしょにノーベル賞を受賞したファインマンがこの「クォーク」という名を嫌って、「パルトン(パートン)」=「部分子」という名を提案したという話もあったり。
 でも、私には、なんで、よりにもよって『フィネガンズ・ウェイク』なの?――という疑問はありました。
 じつは最初は「そんなものか」と思っていたのですが、ジョイスの作風というのをあとで知って、「たしか「クォーク」ってこの人の作品から採ったんだよなぁ? なぜ?」と大きく疑問になってきたわけです。
 だって、『フィネガンズ・ウェイク』といえば、『広辞苑』にも「難解な前衛文学」と書いてあるくらいの、すごいわけのわからない作品です。というより、だということです。読んだことないから。
 だから、とても単に「そのとき読んでいた小説からつけた名まえ」という軽いものとは思えない。
 で、この佐藤さんの『破られた対称性』を読んで、やっとその謎が解けました。まあ、それでも「なんでよりによってジョイス?」という謎は解けないですけどね。
 それによると、『フィネガンズ・ウェイク』では、「マスター・マークに三つのクォークを」というふうに出てくるらしい。ここの「クォーク」は、カモメの鳴き声であるとともに、 quarts =一杯の酒ということばにかけてあるわけで、「マークの旦那に酒を三杯」というところを、飲んでも何にもならない、というより最初から飲めないカモメの声にして「マークの旦那にくわぁ(クォーク)を三杯」(これ、ジョイスの訳には一家言ある柳瀬尚紀さんはどう訳しているのだろう?)と言っているわけですね。
 それで、この quarts というのは Quatrequarts(カトルカール) の quarts だったりもするわけで、Quatrequartsasin:B002KJG9L8) とは何かというとこことか読んでください。ちなみに『夜想サァカス』(asin:B003C2TJNW)はここここです。以上、宣伝でした。
 つまり「三つのクォーク」なので、「陽子に三つ、中性子に三つ、粒子の種類自体も三つ」という、何かと「3」に縁のあるこの粒子に「クォーク」という名まえをつけた、ということなんだそうです。
 このあたり、古典ギリシア語を操れることを「教養」と考え、「クォーク」などという怪しげな名まえを蹴ろうとしたファインマンと、ジョイスの前衛文学からわざと謎めいた名まえを持って来たゲルマン(クォーク説の提唱者)との「教養」の違いが感じられるようで、興味深かったりもします。