猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

次は「近代」から解き放たれた人たちへ

 「佐藤通雅『賢治短歌へ』について」の第5回(とりあえず最終回)です。
 作者の佐藤通雅さんは、ご自身が歌人ですし、近代短歌史や近代短歌論にも通じておられる。そして、同時に賢治研究家でもある。それがこの本の最大の「強み」でしょう。
 佐藤さんが最初のほうに書いておられるように、近代短歌や現代短歌に関心を持つ人は、宮沢賢治にはほとんど関心を持たない。逆に、賢治ファンは近代短歌にはあまり関心がない。そういえば、啄木と賢治の関係はときどき語られるのに、啄木と賢治の比較研究というのはあまり見ない(ないわけではない)と思います。去年の宮沢賢治学会での発表で、東北の歌壇と賢治の関係を論じた発表がありましたから、これからは「短歌史のなかの賢治」という方向の研究も盛んになっていくのかな、とも思いますが。
 私もこの本から教えられるところは多くありました。とくに「近代短歌は一人称の文学である」ということには「そうだったのか!」という強い驚きを感じました。短歌をやっている人には当然のことなのかも知れませんが、私はこれまでそんなことは少しも意識しませんでした。
 そして、その「近代短歌」の束縛と賢治がいかにつきあい、賢治がその「一人称の文学」性をどうやってかわし、飼い慣らし、やがて短歌に別れを告げていったのか、ということが、作家論(伝記を含む)・作品論の両面から実証的に解きほぐされている。「近代性とどうつきあったか」ということは、賢治の短歌だけの問題ではなく、賢治に限定して考えても、詩についても、童話についても言える。賢治の個性は、「近代短歌」には合わなかったけれども、「近代詩」や「近代童話」にはびったし合った、かというと、ぜんぜんそんなことはない。詩を書いてもまた賢治は悩み苦しむことになるわけです。「これは詩じゃない、「心象スケッチ」だ」ということを気負って言ってみたり、「いや「心象スケッチ」じゃダメじゃないのか?」と悩んだりしました。童話だって、鈴木三重吉のところに自分の書いた童話を送ったら、「なんじゃこれは?」的に一発でボツにされたりしています(「ロシアでは通用するのかも知れないが」とか言われたらしい。賢治のどこが「ロシア」っぽいのか興味深いところではあるけれど)。「子どもを健全な近代人に育てるための童話」というのを期待する「近代文学」の姿勢とは、賢治の書いた童話はあまりに異なっていたわけです。まあ、このときの「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」という作品は、賢治の書いた童話のなかでも特別に「近代童話とは異なる」作品で、大人が読んでも(もしかすると「大人が読んだら」)なおわけがわからない作品だという事情はあるのですが、ともかく「近代童話」のメインストリームとは根本から違っていた。
 まあ「子どもを健全な近代人に育てるための童話」というのが「近代文学」のメインストリームなのかどうかも検証してみる必要がありそうだとは思いますけど。
 詩でも童話でも賢治の作品は「近代性」が想定する「文学作品」からはズレていたわけです。それも、たぶん、かなりズレていた。この本自体は、近代短歌の形式に収まらなかった賢治が詩や童話の創作へと移っていったところで基本的に終わっているのですが、それでハッピーエンドだというわけではなくて、「賢治文学と近代文学の葛藤」の序奏部分のように位置づけることもできるでしょう。
 この『賢治短歌へ』は、著者の佐藤通雅さんが、賢治研究や短歌研究を読み進めながら書いて行っているという流れが感じられるところも特徴で(もともと連載だったとのことです)、途中で「最近こんな本を読んだ」という話が急に出てきたりする。賢治短歌の評論を書いていないときにその賢治論や「近代短歌」論を読んでも、その内容は佐藤さんのなかではここに書かれているような響きかたはしなかったでしょう。佐藤さんの「賢治短歌」への思索が、賢治研究や短歌研究との出会いと絡み合って発展して行くようすが、「ライブ感」をもって描かれていると感じました。これを、お行儀よく、最初に「先行研究の紹介」をまとめてそのあと自説を展開する、という形式にしてしまったとすれば、この本から感じられる「熱気」はずいぶん冷めたものになったのではないかと感じます。
 さて、この本は、「賢治の短歌はつまらない」という「近代短歌」側からの発言に抗して、「いや、もともと賢治短歌は近代短歌とは違うものなのだ」ということを論証することに重点が置かれています。したがって、「では、その近代短歌という視点をはずして読んだら、どうなんだ?」という問いには十分に答えていないところもあると私は感じました。
 それがどういうところかというと、一つは、「近代短歌」より前の「和歌の一ジャンルとしての短歌」との関連です。当時の教育のなかで、賢治が「和歌」に触れる機会は多かったはずです。啄木や北原白秋だけでなく、そういう「古い和歌」から賢治が何かを引き継いではいないのか、ということは、この本ではあまりよくわからないと感じました。後に五七調・七五調を基本とする文語詩を作ることを考えれば、「古い和歌」にまったく無関心だった、あるいは「近代短歌」のメインストリームが「古い和歌」に感じる反発をただ共有していただけ、などとも考えられないのですが、その問題関心は必ずしも正面からは採り上げられていません。
 少しだけ触れたように、賢治の短歌は必ずしも「五‐七‐五‐七‐七」の字数を守っていないのではないか、という問題があって、この「古い和歌」との接しかたがここに関係してくるかも知れません。もっとも、明治の文語詩でもさまざまなリズムが試みられましたから、その影響かも知れませんし、だいたい短歌を作り始めた最初の時期というのは平気で字足らず・字余り、それも激しい字余りとかをやってしまいがち、ということもあるだろうとは思います。でも、一方で、賢治は後の文語詩では未完成作品を除いて「字余り・字足らずなし」という作風を守っています。『万葉集』の長歌をいまの私たちが読むと、五七調とかに収まっていない作品があって、「歌の古いかたち」ってこんなのだったんだな、と感じる。そういうのの影響はないのか。あるいは「訓読された漢文」の影響があるかも知れない。賢治は「訓読漢文の創作」というのを童話「二十六夜」でやっていますから、それの影響が短歌のリズムに及んでいるかも知れません。そういうことは、この本では本格的には探究されていません。
 また、賢治短歌のなかで、読者に強い印象を残す方言短歌についても、この本では「挿話」的に触れられるだけです。
 それに、「サイケな短歌」にも時期ごとに特色がある、ということは、私はこの本から大いに教えられたわけですが、「サイケな短歌」自体の読み込みが十分に展開されているとも言えないところがあります。
 頭のなかを跳ね歩いている「赤いめだま」の動物とは何なのか? べえでないのは確かとして(それはそうだ)、何なのか? 「星めぐりの歌」からすると「赤いめだま」というと「さそり」で、たしかにさそりは節足動物なので「関節(関折)」が多い(内骨格の関節ではないけれど)。それで「さそり」は「魔もの」とも書いているわけです。さそりの群体が脳の中を「跳ね歩いている」としたら、相当に気もちが悪い。でも、さそりではないかも知れない。
 そこからさらに行くと、この「さそり」にしても、佐藤さんの本にも出てくる「月」にしても、また金星にしても、すごく魔的で不吉な印象と、とても清冽で神聖な印象が、一つの題材に即して歌われることがあります。これは短歌だけではないと思います。賢治のなかでのこの「聖」と「魔」のスレスレの近さの印象というのは、もしかすると賢治の本質に近いところにあるのかも知れない。この本では、「近代短歌 対 賢治短歌」という構図が中心になっているので、そういうところまで論じつくしてはいません。
 でも、たぶん、そういう問題は、「文学における近代性っ!」みたいなものに青筋を立てていなければならないという意識からはまったく無縁な、「戦後」よりもずっと後の人たちが論じていくべき問題ではないかと思います。戦後の「前衛」も、明治後期の「近代」がそのままでは通用しないことを感じつつ、それでも「近代」にこだわったわけですね。私はよく知らないけれど。そのこだわりすらない世代こそ、もしかすると、賢治の短歌を、もっと広く言うと賢治作品を存分に論じられるのかも知れない。「戦後」を知っている世代に、賢治が生きた時代に近い、したがって賢治が生きた時代の「文学」の状況にじかに接しているというアドバンテージ(有利さ)があったとすれば、その後の世代は、むしろそれを知らないことをアドバンテージにできるのではないか。
 これからの賢治作品の読まれかたの可能性は、いろいろあるけれども、アニメとかゲームとかラノベとかに親しんだ人たちのなかで、賢治作品は新しい感受のされ方をするのではないかと思います。たとえば、眼が赤い動物の群れが脳の中を跳ね歩く、と読んで、ただちに『叛逆の物語』の一場面が思い浮かんでしまう(だって群れになって出てきたじゃない?)ような人たちのなかで、です。これは私は機会があるたびに言っていることですけれど。とくに、賢治の短歌というのは、「近代」にとらわれない人のほうがより豊かに読める可能性を大きく持っているジャンルなのではないかと思います。

御礼、お知らせ+【宮沢賢治】佐藤通雅『賢治短歌へ』について

 「本の杜7」ご参加のみなさまお疲れ様でした。……もう一週間経ってしまいましたけれど。
 「本の杜」はいつも心が和むイベントですが、今回はとくに時間が経つのを忘れてしまう楽しいイベントでした。打ち上げ参加も久しぶりでしたが、これもやっぱり時間が経つのを忘れてお話に熱中する楽しい時間でした。イベント参加者のみなさま、お疲れ様でした。ありがとうございました。
 この一週間がけっこう忙しくて(まあティアの新刊のための原稿を書いて忙しかったりもしましたけど)、まだイベントで買ってきた本の整理もできていない状況です。せっかくのご本、まだ拝読していないものが多く、まことに申しわけない気もちです。ティア新刊の目処が立ったら(って、いつ立つんだ、というつっこみがありつつ)少しずつ読んでいこうと思っています。よろしくお願いします。
 あ、あと、「本の杜7」のパンフレットを見返してみると、予告していた新刊がまだ出ていなかったり、持ちこみ冊数が少なくて(見本誌を除いて2冊とかだったので)すぐに売れてしまったりというので、パンフレットに載せた本が一冊もない、という事態になっていました。申しわけありませんでした。
 で、そのCOMITIA112ですが:


 5月5日 11:00〜16:00 東京ビッグサイト東4・5・6ホール
 V-39b 「アトリエそねっと」
です。いま書いたように新刊の目処はまだ立っていませんが、何か出すべくがんばってみます。こちらもよろしくお願いします。
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【宮沢賢治】「短歌歌人」としての賢治の生涯

 「佐藤通雅『賢治短歌へ』について」の第4回です。
 この本で、佐藤通雅さんは、賢治(宮沢賢治)の(旧制)中学入学以後の足跡をたどりつつ、賢治の短歌を時期ごとに読みこんでいきます。
 佐藤さんが重視しているのは、賢治が、中学校に入って寮に入り、「自分だけの空間」を手に入れたということです。当時は学生寮が個室ということはなくて、同年代の寮生といっしょですが、それでも自宅でいつも親の視線を気にしていなければならない状況と較べると、同年代の友人のよい影響・悪影響を含めて、自分だけでいろいろなことを考えられる空間を手に入れたと言える。そういうなかから賢治の「文学」の行いが始まってくる点に佐藤さんは注目しています。
 なお、佐藤さんは、このなかで、「中学生宮沢賢治」を語るときに必ずといっていいほど出てくる「銀時計事件」を相対化しておられます。銀時計事件とは、中学に入学したとき、父の政次郎が寮の監督役の教員(舎監)の前でわざと大きい銀の懐中時計を巻いて見せびらかして、その教員にあざ笑われたというものです。賢治の自分の家への嫌悪と父親への反発、そういう家と父親を持つことの「恥ずかしさ」の意識を語るエピソードとして重視される(賢治自身も後年までこだわっていた)のですが、佐藤さんは、短歌を検証しつつ、ほんとうに父政次郎は時計を見せびらかす目的で時計を巻いたのか、またその当時から賢治がそのことに嫌悪や負い目を感じていたのかということに疑問を出しておられる。これは鋭いと思いました。
 その後、中学時代の「反抗期」、最初の入院、看護婦(現在なら「女性看護師」)への思慕、「家業の跡継ぎ」を期待されて家にいる鬱々たる日々、盛岡高等農林への進学と再びの寮生活、同好の友人たちとの出会いと同人誌作り、高等農林卒業、再び家に帰った後の日々、親友保阪嘉内との手紙のやりとり……と、時代を追い、「文学」としての賢治の短歌=「賢治短歌」の始まりから「短歌時代の終わり」へと、伝記上の事実に重ねて作品を読んでいきます。何度も繰り返したように、「この時期はこういう時期だから作品はこういう特徴」と一刀両断するのではなく、伝記上の事実を見ながら、同時に作品を読んで行く作業が続きます。
 ちなみに、前に紹介したような「ヘンでサイケな短歌」はいろいろな時期にも出てくるのですが、佐藤さんは、それを一括せず、時期ごとに分けて特徴を論じておられます。
 これも前に書いたように、「近代文学」では、短歌は「一人称の文学」ということになっているのだそうです。つまり「自分が」という主体がいつも存在する。たとえ風景を歌っているだけであっても、それを見ている自分、その風景を前に考えている自分というのが、必ず存在する。そして、中心は、その風景の説明ではなく、それを前にしている自分のほうにある。「近代短歌」とはそういうものなのだそうです。「近代短歌」が戦争へと向かい戦争をたたえる時流に抵抗できなかったことへの反省(文字どおり「自分を振り返って問うてみること」)から「前衛短歌」が生まれる。「前衛短歌」はその「一人称」を複数化することを試みる。しかし、賢治の短歌はその「前衛短歌」とも異なっている。
 では、どこが違うか。それは、短歌は「一人称」で何をやるか、ということとかかわってきます。思ったり考えたりもするわけだけど、風景を前にしたときには「見る」。見て、そこで見たものを歌にする。聴くことも嗅ぐことも含まれているので「感受する」という意味での「見る」です。
 でも、それは、ただ「見る」だけではなくて、それを歌に書きとめることを通じて、「見て、支配する」という方向を、近代短歌は持っている。もともと何の意図を持って配されたわけでもないものを、歌人が一つの「風景」としてとらえることで、そこにあるものが関連づけられる。しかも、その「風景」として歌に詠まれたものは、それはその関連づけをやった主体、つまり歌人支配下に置かれる。前衛短歌のばあいは、その支配をする主体が複数になる。「複数支配」というのはつまり「デモクラシー」ですから、いかにも「戦後」っぽい。
 でも、佐藤さんの捉えかたによると、賢治の短歌では「見て、支配する」という方向性がない。そういうのがある作品もあるけれども、それが希薄な、または感じられない作品のほうがより「賢治らしい」ということでしょう。「一人称」を語る「自己」とか「自我」とかは、「風景」のようなもののなかに拡散して行ってしまう。そして、「前衛短歌」のように、「拡散」した先から「見て、支配する」というわけでもなくて、「見て支配されるはずの風景」のなかにあいまいになって薄れて行ってしまう。だれにも支配されず放置されている「風景」のなかに、「近代短歌」ならばそれを支配するはずの自己とか自我とかまでが紛れて、いっしょに放置されてしまっている。佐藤さんの表現は、短歌論の「文脈」のなかで書かれているので私にはよくわからないのですが、たぶんそういうことなんだろうと思います。
 賢治のばあい、後の詩でも、詩を作っている主体や、詩の登場人物が、「雲」や「台地」にまぎれて主体でなくなってしまう感覚というのが出てきます(たとえば『春と修羅 第二集』の「五輪峠」)。
 もう一つ、佐藤さんが「賢治短歌」と「近代短歌」の違いを見出す点が「物語性」という点です。
 「近代短歌」はそれ自体としては物語を語れない。短歌に「物語性」がないというわけではなくて、何かの「物語」のなかでこの歌が詠まれているな、と感じさせることはもちろん可能だし、むしろ普通です。でも、短歌一首だけで物語を作り出すことはなかなかできない。それは、文字数からして「物語の設定」とかから「物語」を説明することが非常に難しいからです。
 ではどうするかというと、中世の「連歌」と同じように、「連作」していけばいい(ちなみに、童話「鹿踊りのはじまり」には、鹿が方言を使って「連作短歌」を共同制作する、という場面があり、ここの方言短歌というのがまた魅力的です)。中世の「連歌」は複数人の共同制作だけれど、一人でいくつもの歌を詠み、それをつなげることで「自立した物語」を作ればよい。この方法は、「和歌の一ジャンルとしての短歌」の時代からあったわけですし、「近代短歌」にもある。
 それで、賢治もこの「連作」をやるわけです(後には詩でもやる)。ところが、佐藤さんは、賢治の短歌の「連作」は必ずしも成功していない、という評価のようです。けっきょく、短歌というのは一首ごとに自立しているし、一首ごとに「これは一人称の芸術だ」という主張が潜んでしまっている。それは、作者の意図ではなくて、「近代短歌」という形式に潜んでしまっているわけです。そうすると、「連作短歌」では、十分に物語性の翼を伸ばしていくことが、やっぱりできない。それ以前に、短歌のばあい、十首連作で310字、二十首連作で620字で、二十首作ってようやく即売会でときどき見かける「一ページ短篇集」の一篇分くらいの文字数にしかならない。「一ページ短篇」でも「小説の外部の物語」にあまり依存せずに物語が語れるかというと、それもけっこう難しいわけで、けっきょく連作にも大きな限界があるわけです。
 「鹿踊りのはじまり」の方言短歌の連作も、童話の物語が書かれていて、そのなかに埋めこまれています。方言短歌の連作だけで物語を語れているわけではない。
 この「一人称の文学」という形式の束縛、つまり「近代短歌は必然的に自分語りになってしまう」という性格と、賢治の「自分が風景のなかに拡散して溶けていってしまう」という方向性とは、最初から相容れなかったし、その差は大きくなって行く。また、物語を語りたいという欲求も強くなって行き、「連作短歌」の枠には収まらなくなって行く。そういうところで、賢治と短歌との「訣別」はやってくる。賢治はその後も「短歌も作れる作家」ではあり続けるけれども、その「文学表現」の中心を短歌に置くことはなくなった。それが佐藤通雅さんの描く「歌人宮沢賢治の生涯像ということになるのでしょう(なお、「絶筆」、つまり辞世の歌二首のことはここでは省略します)。
 今回で終わるつもりだったのですが、あと一回、続きます。

賢治の短歌はヘンでおもしろい!

 私のばあいは、そういう評価を知る前に読んだので、「なんだこれは?! とってもヤバげでおもしろいじゃないか!」と思ってしまいました。
 とりあえず、どんなふうに「ヘン」なのか、いくつか実例を紹介したいと思います(なお、ところどころ書き改めたり()で漢字を補ったりしています)。


 なつかしきおもひでありぬ目薬のしみたる白き痛みの奥に
 「なつかしいおもいでがあった。目薬のしみた白い痛みの奥になつかしいおもいでがあった」という歌です。
 目薬会社さん宣伝に使いませんか? 「青春目薬っ!!」って感じですよ。
 これは、現在の短歌として読めばそんなに特異ではありませんが、この当時としてはわりと新しい感覚ではないかと思います。この時代の普通の短歌では「なつかしきおもいで」につづいていきなり「目薬」は出てこないだろうと思う。
 まあこれぐらいはいいんですけども。

 ブリキ缶がはらだたしげにわれをにらむ つめたき冬の夕方のこと。
 なんですかそれは? ブリキ缶がどうやってにらむんですか? というかいったい何があったんだ?!

 雲はいまネオ夏型にひかり(光)して桐の花桐の花やまひ(病)癒えたり
 いや……癒えてないんじゃないかなぁその病気……? なんかアブナイ感じがするぞ。だいたい「ネオ夏型」ってなんだよ?
 下の句が「派手に字余り」というより「五‐五‐七」になっているのがおもしろいと思います。これが、「桐の花咲きやまひ癒えたり」ならば、なお「ネオ夏型」の件があるにしても、そんなにヘンな感じはしない。歌としてうまく収まっている。ここが「桐の花桐の花」になっていることで、みょーに躁的な感じが出てくるわけです。
 もうちょっと研究的なことを言うと、「ネオ夏型」は、後に「蛙のゴム靴」に出てくる、「雲がペネタ型(積乱雲の「かなとこ雲」のような形らしい)」につながる発想かも、と思います。

 わがあたま
 ときどきわれに
 こと(異)なれる
 つめたき天を見しむることあり
 「私の頭はときどき私に異世界の冷たい天を見させることがある」……いやアブナイ。アブナイぞ。
 「いや、ときどき異世界が見えるんだよっ!」と、現代の若者が主張しても「中○病」とか言われてしまうのがオチでしょう。けど、これ100年前ですよ。テレビをつけたら異世界アニメをやっているというようなそんな時代ではぜんぜんないわけですよ。その時代にこの想像力というのは、すなおに、すごいな、と思います。
 そこで、もう一個、ヤバげなやつを。

 目は紅く
 関節多き動物が
 藻のごとく群れて脳をはねあるく。
 これは気もちわるい(原文は「関節」が「関折」になっているのでいっそう気もちわるいのだが、誤記の可能性もある)。その「動物」としてどんな「動物」を考えるかにもよるけど、そんなのが、汚水にはびこる藻のようにかたまって脳をはねあるく、って……。
 中島らもの初期の小説に「頭の中がカユいんだ」という作品があるらしい。私は未読で、筒井康隆先生の本で知りました。やっぱりサイケっぽい小説のようです。この歌はそれに迫る感覚があります。なお「Itch In My Brain」というのはユートピアトッド・ラングレンのバンド)の1983年の曲でもあります。
 賢治の病気のときの幻想というのは独特なものがあって、このずっと後には「丁丁丁丁丁」という、これまた謎っぽい詩を書いたりするのだけれど。
 いや、それにしても、だいじょうぶか、この人?
 これも、下の句字余り連発「八‐八」で読むよりは、「藻のごとく/群れて/脳を/はねあるく」で切って「五‐三‐三‐五」で読むほうがいいのかも知れません。
 もひとつ、ヤバげな「契約」っぽいのを。

 南天
 蝎よもしなれ(汝) 魔ものならば
 のちに血はとれまずは力欲し
 南の空のさそり座よ、もしおまえが魔物なのなら、あとで血はとっていいから、まず力をくれ!
 ……まあ青春っぽい「あとさき考えなさ」といえばそうだけど、自分の血を与えて魔物と契約する、しかも契約を急いでいる、っていうんだから、やっぱヤバいよね。なお、この歌に触発されて魔法少女ものを書いてしまった私の過去はいちおう封印しよう。あれもまた書き直したいのだが、いずれにしてもここではあまり関係がない。
 そういえば、跳ね歩いている目の赤い動物って、アレか? あの白くてしっぽの大きいやつ。でも、あいつは少女専門のはずだし……。
 後の「銀河鉄道の夜」での清冽な「さそりの火」とはまったく印象が違うのが興味深いところです。でも、このころからさそり座のアンタレスの赤い光に深い印象を抱いていたというのは、なかなか興味深いところです。この歌に限らず、金星の歌も複数あって、若い賢治は星の光に敏感なようです。

 友だちの
 入学試験ちかからん
 林は百合の
 わか芽萌えつつ
 あ、入試よりも百合っぽい本の即売会を優先したってことね。今年は3月に GirlsLoveFestival あったしね。
 ……いや、これはまあ、違うと思います。それにしても「百合のわか芽萌えつつ」って響き、いいよなぁ……。
 まあ、というように、百合はともかく、かなりヤバい、サイケデリックな短歌が賢治にはいっぱいあるのです。
 ただ、「サイケでわけがわからない」というのではなく、サイケデリックであってもそれぞれすぐれていると私は思います。「ブリキ缶が自分をにらんでいると感じてしまうような冬の寒さ、冬の孤独さ」、「病気の回復期の高揚感のただなかから見る、東北地方の初夏の夏空と桐の花」というのがきちんと描かれている。なお『桐の花』は北原白秋の詩集の題名でもあります。また、賢治作品に詳しい人なら、「桐の花‐やまい」という関連から、後年の文語詩「祭日(二)」を連想するかも知れません。
 しかも、こんなサイケ短歌ばっかりじゃなくて。

 なきやみし
 鳥をもとめて
 泪しぬ
 木々はみだれて葉裏をしらみ。
 鳴くのをやめた鳥の姿を求めて涙を流した。木々が乱れて葉の裏が白く見えている(=そうなるほどに風が強い)ので(鳥が飛ばされて苦しんでいるのでは、と思って)。
 これは、ちょっと感傷的だけれども、サイケではなくて普通に優れた短歌だと思います。しかも「風」ということばを一言も入れずに、平和に鳥が鳴いていたところにいきなり強風が吹いてきたときの荒涼としたありさまをよく描いている。技巧的にもよくできている。
 賢治の短歌って、文学者としての非凡さを思わせる作品だけでなく、サイケでやっぱり非凡な作品がけっこうあって、それが次々に出てくるわけです。
 いや、現在ならアリだと思いますよ。新房昭之監督に映像をつけてもらいたいくらいに。しかし、これが、1910年代の「近代短歌」だと言われると……どうなんだろう?
 やっぱ違うんじゃないか、と思うので、それを「賢治短歌」という一ジャンルなのだ、というのであれば、それは確かにそのとおりだと思うわけです。
 で、佐藤通雅さんは、ただ「サイケだ」ですますわけではなく、そういうなかでも作風がどう変化していったかを、例によって、手紙その他の資料から見る伝記的な研究と、作品そのものの研究の両面から詰めて行きます。
 さらに続きます。


 なお、賢治の短歌は、ネット上では
 http://why.kenji.ne.jp/tanka/tanka.html
などで読めます。そのなかでどこを読もうか迷ったら、まずこのへん:
 http://why.kenji.ne.jp/tanka/bt0304.html
はいかがでしょう? なお、ここに掲げたページ「宮沢賢治作品館」では本文の採りかたが違うため、「ネオ夏型」の歌などは私が引用したのとは違っています(決定稿ではない原稿のまま残っているので、本文の採りかたが複数あるのです)。大ざっぱに言えば、「宮沢賢治作品館」は「校本全集」依拠で、私の引用はその後に編集された「新校本全集」によっています。

「佐藤通雅『賢治短歌へ』について」の第3回

 宮沢賢治というとやっぱりまずは詩(口語詩)と童話の作家であって、それ以外の文語詩とか短歌とかは、「賢治について詳しい人は知ってるよね」程度の認識で終わってしまいがちです(あるいは「そんなのあるの?」とか)。しかも、賢治の詩に関心を持つ人も、『春と修羅』(第一集)への関心が強くて、『春と修羅 第三集』などになると「はい? 『春と修羅』に第三集ってあったの?」というくらいの関心という例が多いのではないかと思います。
 こういう傾向はじつは愛好者だけではなくて、戦後の賢治論の基礎を築いたような文学者でも、もちろん賢治の主要作品はぜんぶ読んでいたとしても、『春と修羅』(第一集)の詩を基準に他の詩を評価するとか、「雨ニモ負ケズ」を基準に他の作品を評価するとか、そういう論じかたをしてきました。そういうことをやっていると評価からこぼれてしまう作品群の代表が、晩年の文語詩であり、また初期の短歌です。初期の短歌は「若書き」で未熟で文学的価値が低い、晩年の文語詩は創作力が衰えて日本の伝統に安易によりかかっている、という評価になってしまう。
 こういう評価に対して、それぞれ正当な評価を与えようと、作家研究と作品研究の両面から迫っている一人がこの本の作者の佐藤通雅さんです。
 しかも、賢治の短歌は「ヘンな短歌」が多いので、「未熟」とか「つまらない」とか言われてきたらしいんですね。
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【宮沢賢治】賢治の短歌とはどんな短歌か

 ……の前に。
 「本の杜」にサークル参加します。

 2015年4月19日(日) 11:00〜15:30
 川崎市産業振興会館 4階 企画展示室
 A-06 「アトリエそねっと」
です。新刊をどうするかは現在悩み中です。「新刊は何もありません」という事態は全力で避けたいのですが……。
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【宮沢賢治】「近代短歌」と「賢治短歌」

 「佐藤通雅『賢治短歌へ』について」の第二回です。
 佐藤さんが前著で採り上げた「文語詩」が賢治(宮沢賢治)の生涯最後の時期の重要作品だとすれば、賢治の最も初期の作品群は短歌です。
 賢治は、現在でいう中学生・高校生のころから短歌を作っていました。授業で書いた作文などを除けば、初期の作品はほとんどが短歌です。
 盛岡高等農林学校(現在の岩手大学の前身の一つ)に進学してから、賢治は、フィクションの短編や詩的な要素をたくさん含んだ紀行文などを書くようになり、卒業後は詩(口語詩)や童話を書き始める。それと入れ替わるように短歌はあまり作らなくなる。「たくさん作ったけれども残っていない」という可能性はゼロではないですが、賢治が創作メモ的に使った手帳も不十分ながら残っていて、そこにも短歌はほとんど出ていないので(というより、その手帳類にも短歌が出ていて、それがごく少数なので)、ほとんど作らなくなったと考えるほうが自然でしょう。
 では、なぜ賢治はそのまま短歌を作り続けて歌人にならなかったのか? それを、賢治の短歌の特徴と重ね合わせて論じたのがこの佐藤通雅『賢治短歌へ』です。賢治研究家であり、もちろん賢治の作品の愛好者であり、しかも自ら歌人であるという、佐藤さんの「地の利」が活かされた評論だと言えるでしょう。
 佐藤さんは、「賢治がなぜ短歌を作り続けなかったのか」という問題を、賢治の短歌の際立った特徴と結びつけて論じています……って、それはいま書いたな。で、その「際立った特徴」というのは、賢治の短歌作品は一人称の作品ではない、ということと、短歌を連作したときの「物語っぽさ」(というのは私の表現)です。
 私自身は、「短歌というのは一人称の文芸だ」ということをこの本で初めて知りました。短歌では常に「私」が主人公になっている、ということです。う〜む。いままでそんなことを考えたことはなかったな。
 で、そのことを整理しなおしてみようと思います。私が理解するために。そういえば、「ネットの書き込み」というのも「私」が主人公のことが多いよね。それと「近代短歌」が重なるかどうかは、これも考えてみたことがないけれど。
 で、「短歌」というのは基本的に近代の文芸です。
 もともと和歌というのがあって、その和歌のなかの最も短い形式が「五‐七‐五‐七‐七」の「短歌」でした。
 和歌には、前半に「七」の繰り返しが一回多い「五‐七‐七‐五‐七‐七」の「旋頭歌」もあり、また、『万葉集』には、もっと長い「長歌」というのも収められています。「五‐七」を延々と繰り返すばあいが多いですが、それには限りません。『万葉集』の長歌には「四」や「六」が入っていることもあります。なお、賢治の「文語詩」は形式の面ではある程度はこの「長歌」に似ています。
 そういうなかで、いちばん短い形式だったのが「短歌」です。そのあと、もっと短い「俳句」というのができるわけですが、これは、大ざっぱに言えば、あとでちょっと触れる「連歌」というジャンルの関係で、短歌の「上の句」が独立した形です。
 「和歌の一ジャンルとしての短歌」には、別に「自分が主人公でなければならない!」というこだわりはなかったと考えていいでしょう。百人一首の和歌とか思い出してみると、たしかに自分が主人公というのが多い。でも、同じ和歌でも、『万葉集』の長歌には、物語的で、自分ではない主人公がいる作品があります。浦島物語とかも『万葉集』にあります(というのも最近知った……)。そして、その長歌には、「反歌」という、その仕上げというかまとめのような短歌がつくことがあります。「反歌」では、主人公は長歌の主人公に一致しているから、必ずしも自分とは限らない。
 しかし、長歌が作られなくなった後の短歌(和歌の一ジャンルとしての短歌)は、「物語の一部」的な性格を感じさせる作品はあるにしても、物語全体を短歌で語るということはできなくなってしまいますし、主人公も自分であることが多くなります。ま、ようするに、短いのでそれしかできないんですね。「こういう主人公がいて、そのひとが……」とかやってると、それだけで字数が尽きてしまう。『万葉集』の長歌では自分以外の主人公でもよかったし物語を語ることもできたわけですが、「和歌」がほとんど「和歌の一ジャンルとしての短歌」になってしまうと、それが難しくなる。「自分語り」が主になります。
 ただ、中世に流行した、複数の人による短歌の連作である「連歌」では、物語性も持たせられたし、主人公も自分でなくてもいい。「それまでにできていた物語をずらせていく」というなかなか「ポストモダン」っぽいこともできてしまいますし、「連歌」の人たちは実際にやっています。いや、詳しいことは知らないけど……。
 そういう「連歌」の性格が、むしろ俳句のほうには流れこんでいるのではないかと私は思います。たとえば、芭蕉の俳句を考えても、作者自身が主人公だな、と感じるものもありますが、主人公が不明、または主人公がとくに問題にならないような作品もあったりする。古池に蛙が飛びこむ水の音を、芭蕉さんがきいていても、ほかのひとがきいていても、またはだれもきいていなくても、そういうことはたいして問題ではないわけです。そういうことを考えると、「和歌の一ジャンルとしての短歌」が、主人公を消去してしまうには長すぎ、しかし自分以外の主人公を出すためには短すぎて、「自分が主人公」が固定されてしまったのではないか、と思います。
 で、たぶん、それに意識的に「文学であるからには、自我を問題にしなければならない!」という、力の入りまくった文学意識というのが、明治になって乗っかった。それが近代短歌だ、ということなんだと思います。近代短歌史みたいなのは高校でも習ったはずなんですが、そういう視点で整理したわけではないので、これは新知識でした。
 いま調べてみると、近代短歌の中心になった雑誌『アララギ』が創刊されたのが1908年(俳句雑誌『ホトトギス』のほうが創刊が10年以上早い。なお与謝野晶子『みだれ髪』は1901年)、ということは、まだ少年だった賢治が短歌を作り始めたのは、近代短歌というのがある程度の広がりを持ち始める最初の時期なんですね。もちろん、和歌(の一ジャンルとしての短歌)という形式は「近代短歌」などというものが始まる前から、当時の日本人の生活のなかにはかなり浸透していた。朝廷とか宗教界とか国学者とかのエリートが作る高踏的な和歌もあったし、江戸の庶民文化として狂歌というのもあったわけです。だから、短歌形式は当時の日本人には身近なものだった。そこに、それに対して、「近代文学っ!」という自意識を持った短歌というのが始まってくる。形は同じでも精神は違う。少なくとも近代短歌の側では精神が違うことをアイデンティティーにしている。しかも、この始まりの時期に、伊藤左千夫とか、斎藤茂吉とか、北原白秋とか、そして石川啄木とかのスターたちがどーんと出てくる。まさに「近代短歌ビッグバン」です。あるいは「カンブリア爆発」とか……って動物扱いだな、これでは。まあそういう「ビッグバン」の時期に少年期の賢治は居合わせたわけです。
 だいたい「近代文学」といっても、『吾輩は猫である』の発表が1905年あたりですから、口語文による近代文学(小説)というのも、賢治の少年時代にやっと確立の時代を迎えていると言っていいでしょう。もっとも、森鴎外舞姫』や幸田露伴五重塔』は賢治が生まれる前ですから、「口語文による」というところをはずせば、明治10年代の政治小説も含めて、近代文学はそこそこの積み重ねは持っているわけです。そこでももちろん「自己」・「自我」という問題意識は出ている。でも、私たちが考える「近代文学」というのは、1900年代にはまだ「成長途上」という性格があった、とみていいのではないかと思います。
 で、「近代文学」である、「自我」を語らなければならない、短歌の主人公は「自分」でなければならない、という常識が、1900年代から1910年代にかけて形成されて行く。
 賢治のことは飛ばして、その後、それがどうなったかというと、1930年代から1940年代前半には、短歌は「自分語り」であるためにかえって時流に抵抗することができず、戦争賛美の短歌に走ってしまった。「そんなの短歌だけじゃないじゃん!」と言えばそれまでなのかも知れませんが、「近代的自我を持たねば!」というのが明治の「文学」のスタンダードだとすると、「自分たちは戦争に協力してしまった……」という悔恨が「戦後文学」というもののスタンダードだったわけで、「戦後」を背負う歌人たちはそのことに悩むわけです。そんななかから「前衛短歌」という運動が出てくる。
 では「前衛短歌」の方法とは何かというと、「自己」を複数化していくことなんだそうです。つまり、短歌で「自分は……!」と主張したいのは、何も作者だけではないだろう、いろいろと主張したい人がいるはずなのに、作者が「短歌のなかで自分を語れる人」の地位を独占していいのか? ――ということなんだろうと思います。だから、短歌のなかで語る「自己」を複数化していく。それが「前衛短歌」の方法だということなんですが……こうなると私には何が何やらよくわかりません。まあ「戦後」というと「民主主義」の時代だから、自分の歌であっても自分が一人で支配するのはよくない、ということなんでしょう。
 ともかく、それを踏まえたうえで、佐藤さんが書いておられるのは、賢治の方法は、もちろん古風な和歌でもないし、「近代短歌」の「自分語りの短歌」ではない(そういうのもあるけれど)だけでなく、「前衛短歌」の「自分語りをする「自分」を複数化する短歌」でもやっぱりない。非常に独特なものだ、というわけです。
 この本のタイトルにある「賢治短歌」というのもそういう考えを踏まえた表現だということです。「賢治の短歌」では不十分である。つまり、宮沢賢治という歌人がいて、その歌人が「近代短歌」のジャンルに属する短歌作品を詠んだわけではない。賢治の短歌は、伝統的な和歌ではなく、同時に、「近代短歌」でもなく、さらに言えば賢治の没後に出現する「前衛短歌」でもない、「賢治短歌」という独特のジャンルの作品なのだ、という思いが、このタイトルにはこめられている、ということなんですね。
 「○○の□□は他のすべての□□とまったく違った独特のものであるっ!」というブチ上げかたは、とても気負っていて、とても目立つけれど、それだけにかえって「それって看板倒れなんじゃないの?」、「じつは大したことがないからそうやって虚勢を張ってるんじゃないの?」という疑惑を生みます。では、この「賢治短歌」というブチ上げは、どういう内実を持っているというのでしょうか、というところで、またまた次回に続きます。