猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

鈴木由美『中先代の乱』について(3)

 この本の最大の特徴は、その中先代の乱を、建武の新政の時期から南北朝時代にかけて続く「北条与党」の反乱のなかに位置づけたということではないかと思います。
 「北条与党」というのは、北条氏の人びととその家臣(被官)をまとめたものです。現在の感覚だと「与党」というのは政権側なので、「与党の反乱」というのはあまり穏やかじゃないですけど。いや「北条与党の反乱」も穏やかじゃないですけどね。
 「与党」というのは「味方をする(与る)人びとの集まり(党)」なので、「わたし政権の味方です」という人たちの集まりが議会政治の与党、「わたし北条氏の味方です」という人たちの集まりが「北条与党」です。

 で。
 この中先代の乱以外にも北条与党の反乱はたくさん起こっていました。建武政権期(元弘3年~建武2年、1333~1335年)だけで、事件数は中先代の乱を含めて15件、ほかに、関連性不明のものが11件ということです。
 高校の日本史には出てこなかったけど、北条与党の反乱というのは建武政権期の一つのトレンドだったんですね。
 この本にはその北条与党の詳細な反乱リストが根拠資料をいちいち挙げて掲載されています。なんかこないだうちの職場で作った業務目標達成度報告書を思い出して苦笑い……。私はその作業には直接にはかかわってないけど、「こういうの作るのってたいへんなんだ」ということはわかりました。だから、このリストが作者の労作である、ということがとてもよくわかります。

 この北条与党の反乱に注目したのは著者が最初ではなく、佐藤進一『南北朝の動乱』ですでに検討がなされているということです。
 この佐藤進一『南北朝の動乱』というのはすごい本で、もちろん初出1965(昭和40)年という時代の制約はあるけれど、その後、建武政権史や南北朝時代史で議論される問題をいろいろ先取りしています。
 この北条与党の反乱についてもそう、ということです。
 で、その佐藤進一説の論点を著者の鈴木由美さんが再検討しています。
 大ざっぱに(そのぶん不正確に)まとめれば、反乱はそれまで北条氏が守護を務めていた国で多く発生していて、守護としての北条氏が築いた地盤に基づいて起こっている、それが、その地方の事情や中央での動きと連動しているばあいもある、というのが佐藤進一説です。
 著者による検討結果も大ざっぱに(そのぶん不正確に)まとめると、たしかに北条氏が守護を務めた国で反乱が起こっている例が多いが、「北条氏が守護を務めていた国」自体が圧倒的多数なので、関連性は明らかとは言えない。北条氏も内部でいくつもの「家」に分かれていて(本家=得宗家のほかに名越家、赤橋家、金沢家など)、守護を務めていた「家」とは別の「家」の北条氏の人物が反乱の主となっているばあいもある。またとくに地域との関係がなさそうなのに北条氏の人物が主になって反乱を起こしているばあいもある、というものです。
 北条氏に属する人物やその周辺の人物、つまり北条与党に北条政権復活への意志があり、地域に建武政権への不満があって、それが濃淡さまざまな割合で混じり合って、「北条氏の人物を担いだ反乱」として現れた。この点はたぶん佐藤進一説とそれほど違いはない。ただ、著者の説は、それが、守護として築いた地盤とは関係なく「北条一族を反乱の主にする」という動きとして起こっているばあいがある、ということです。地元とつながりがなくても、「北条一族の者」というだけで、反乱の主に担がれる理由になった、ということですね。
 「北条氏であること」にはそれだけの意味があったのです。

 ところで、日本史で鎌倉時代の歴史を学んでいて、ふと感じる疑問に「源頼朝に始まる源氏の幕府と、源氏将軍が断絶した後の北条氏の幕府は、同じものなのか?」というのがあるんじゃないか、と思ったり。
 もし北条氏が将軍になっていれば、「源氏幕府」と「北条幕府」は、同じ鎌倉に存在したとしても、もっとはっきり区別されていたでしょう。
 北条氏はけっきょく自分では将軍にならなかった。それは「北条氏の弱さ」なのか? つまり「北条氏はできれば将軍になりたかったけどなれなかった」のか? それとも、北条氏は北条氏であるというだけで十分で、「将軍になる必要なんかなかった」のか?
 これは私にはよくわからないところです。

 ただ、少なくとも関東の人たちや御家人に対しては、主要御家人の生き残り競争に勝ち抜いた後の北条氏は「将軍になる必要なんかなかった」のでしょう。
 北条一族であるというだけで幕府の権力を握れる。「握れる」というのですらなく、「握るのが当然として、だれも疑わない」ということになった。そのときから、幕府の最高指導者が、特別な一族である北条氏の本家の家長(得宗)であるという体制が決まった。だいたい、執権北条時頼の時代の後半から、ということになるでしょう。
 そして、蒙古襲来の後、その北条一族の権威と権力は、「関東・御家人」の枠を超えて、全国に拡がって行きます。全国の過半の「国」の守護は北条氏の一族が握り、海上交通なども北条氏が握った。まだ鎌倉幕府だけが「全国政権」という時代ではなく、朝廷・院や権門貴族(中央の有力貴族・有力寺社)も全国に影響力を持っている時代でしたが、その鎌倉幕府についていえば、「鎌倉幕府の最高指導者は北条氏!」という常識が全国に定着した。
 一方で、源氏将軍時代が終わった後の将軍は、藤原氏摂家(摂政・関白を出せる家柄。ここでは九条家)の摂家将軍九条頼経・頼嗣)、後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王系の皇族将軍(宗尊親王惟康親王)、持明院統後深草天皇の子孫)の皇族将軍(久明親王守邦親王)と続きます。
 そこそこ「将軍らしい」動きを見せていた摂家将軍の時代から、宗尊親王系の将軍の時代になると、将軍が将軍として目立つ機会がなくなります。目立つのは将軍追放の局面ぐらい、みたいな程度になってしまう。そのあとの持明院統将軍になると、久明親王が北条氏と関係が良好だったことがうかがえるものの、「将軍として何をやっていたか」はわからなくなる。守邦親王はほとんど存在感がない。この本にも書いてあるとおり、後醍醐天皇が「倒せ」と指令している相手は、「地方役人(在庁)の北条高時」であって、幕府のトップのはずの守邦親王は無視されています(なお、本書で、著者は、宗尊親王系統を「持明院統将軍」に含めていますが、少なくとも血統的には宗尊親王大覚寺統持明院統分裂前の親王なので、著者があえて持明院統に含めるのはなぜなのか、私にはよくわかりません)。
 摂家将軍時代はともかく、宗尊親王が将軍になってからは、将軍は存在感がない。現実の政治権力を集中できる存在ではない。
 じつはこの点は過去には議論があって、1980年代、日本中世史をいっきょに人気のある学問に押し上げた網野善彦さんは、宗尊親王系の時代に、将軍を「公方」として(「公方」は将軍の通称として江戸時代末まで使われます)「徳政」の中心に位置づける運動があった、という議論を提起したことがあります(『蒙古襲来』)。ただ、もしそういう運動があったとしても、それを推進したのは北条氏本家(得宗家)の母方の血筋に連なる安達泰盛だった、ということなので、けっきょくは「北条氏の権威がなければ将軍を持ち上げることもできなかった」ということになります。また、現在では、この網野説をそのまま信じる専門家はほとんどいないと考えていいと思います。

 北条氏は、「北条氏である」というだけで将軍以上に権威ある特別な一族であって、けっして「将軍になろうとしてもなれない弱さ」を抱えていた一族ではない、と見たほうがいいのではないでしょうか?

鈴木由美『中先代の乱』について(2)

 北条時行は、信濃諏訪大社の神官一族にかくまわれていました。この時行が反乱を起こし、信州から碓氷峠を突破して荒川の西側を南下、小手指、府中(武蔵国府)から多摩川を渡って鎌倉に至っています。現在の鉄道線路は東京(江戸)を中心にできているので、「鎌倉に急ぐために不便なところを無理に直線ルートで行っている」という感覚を持ちますが、当時はこれがメインルート(「鎌倉街道」の一つ)なのだそうです。
 また、「諏訪からだったら、あずさに乗って立川で南武線に乗り換えて、小田急線に乗り換えて藤沢に出れば? わざわざ北陸新幹線ルートをとる必要ないじゃん?」と思うのだけど(あーこんな夏の天気のいい日には藤沢とか鎌倉とか行きたい! 東京都在住だからダメだけど)。つまり、信濃から甲斐に出て、小仏峠を越えて、高尾山の麓から南下したほうがずっとショートカットできるのに……これは、なんでなのかな?
 碓氷峠アプト式に乗ってみたかったとか、電気機関車の補機を連結するのを見たかったとか、峠の釜めしを買いたかったとか、ではないし。
 一つは、関東に出る前段階に信濃守護との戦いがあり、そのために諏訪から北上して、そこから東へ向かったから、いまの中央線ではなく北陸新幹線ルートになった、ということでしょう。
 また、現在の群馬県から群馬‐栃木県境地帯(両毛地方)は、新田氏も含めた足利氏の本拠地で、そこを通過することに何か意味があったのかもしれません。ただ、時行の進撃ルートを見ると、足利・新田一族の本拠地よりも西を南下しているようですが。
 このルートは、この「乱」の少し前に新田義貞鎌倉幕府打倒のために南下したルートでもありますし、このルートをたどると行軍への参加者を募りやすい、ということがあったのかもしれません。
 この本によれば、時行の信濃での挙兵の日は確定できないようです。6月23日~7月14日のあいだのどこかで、現在の7月後半から8月前半です(著者は6月23日を有力と見ているようです)。7月18日には関東に入っています。現在とは気候が違い、気候が寒冷になり始めた時期ではありますが、夏の関東平野、暑いぞ! 甲冑を身につけていたりするとさらに暑い。熱中症予防情報とかが出て合戦禁止だ! まあ、その686年後、そんな暑い夏の関東平野で国際的な大規模なスポーツ大会をやってるみたいですから、いいのかもしれませんけど。建武年間には「コロナ禍」がないからまし、かというと、現在よりもずっと衛生環境は悪かったわけですから、そんな時期の夏に合戦で負傷したりするとめちゃくちゃきつい。
 その暑い関東平野を一週間ほどで南下し、7月24日には時行は鎌倉に入っています。電車のない時代に、しかも合戦しながらこのスピードなので、速い。24日というのは、著者鈴木由美さんによる同時代史料からの推定で、『梅松論』・『太平記』などの有名文献では日付が違っているようですが、長くても10日ぐらいで踏破しています。
 鎌倉には、建武政権後醍醐天皇)側の「鎌倉将軍府」があり、尊氏の弟の足利直義が実質的に鎌倉将軍府を率いていたのですが、鎌倉で決戦することは避けて、足利氏の本拠地の一つである三河(愛知県東部。後に徳川家康の出身地になる)にまで退去します。
 ここで、京都にいた足利尊氏後醍醐天皇に願い出て、北条時行討伐のために出発します。尊氏が征夷大将軍任官を望んだのを後醍醐天皇が拒否した、というのはよく知られていますが、尊氏が軍を率いて東へ出発することは少なくとも黙認はしていたようで、征夷大将軍後醍醐天皇の皇子の成良親王としたうえで、尊氏を「征東将軍」に任じています。
 尊氏は8月2日に京都を出発して、三河で弟の足利直義と合流し、浜名湖の西岸、遠江三河国境(現在の静岡‐愛知県境)の橋本で時行軍を撃破して東へと進撃しました(引用されている『梅松論』の記述だと、時行側が浜名湖を渡って西に出て拠点を築いたので、尊氏軍の一部が浜名湖を逆向きに渡ってその退路をふさぎ、時行軍を孤立させたように読めます)。これが8月9日なので、京都出発から一週間後、そのまた約一週間後の17日には各所で合戦をしながら箱根を越えています。こちらも、合戦の頻度は低いものの、けっこう高速という印象です。
 ま、当時もいまも軍隊というのはメシを食いながら移動する集団なので、兵糧がどれだけもつかを考えると、身体的にきつくても移動は速いほうがよかったでしょう。また、地元民としても、軍隊がゆっくり移動すると、物資をさらって行ったりトラブルを起こしたりと迷惑なので、たぶん軍隊はサッときてサッと去ってくれるほうが歓迎だったでしょう。ただ、「うちに参加すると、戦いに勝ったら所領が増えますよ」みたいな宣伝はしながら進む。それで勢力は増大する。勢力が増大すると食うメシの量も増えるので、やっぱり高速移動のほうが有利だ。だから、勝ちそうな勢いの軍隊なら、宣伝しつつ高速移動したほうがよかったのでしょうけど。
 ただ、尊氏軍の西からの鎌倉攻撃はそれほどたやすくはなかったようで、18日に相模川(当時の流路は現在よりも東寄りで茅ヶ崎市内か)、19日にも辻堂・片瀬原(江ノ島の西側あたりでしょう)で合戦があり、19日に時行側の主要メンバーが鎌倉で自害して時行側の敗北に終わるという流れです。たしかに箱根から2日で鎌倉に入っていますが、時行側の抵抗もけっこう厳しかったらしい。時行はこのとき脱出に成功しています。
 ところで、時行は著者の推定で1329/1330年(元徳元年12月)生まれ、もっと歳上だとしても、兄の邦時が1925年年末(正中2年11月)生まれなので、1926年以後の生まれになります。鎌倉幕府滅亡が満年齢で3歳、この中先代の乱のときには満年齢で5歳です。最大限に歳上の推定をとっても満年齢で9歳です。それで、敵の本拠である三河との国境まで軍を派遣して戦おうという積極策は時行自身の意思ということで。
 しっかりしている、と言うべきなのか。
 ともかく、時行の発言が戦略を決定するくらいの影響力はもっていたようです。
 ただし、この記述は『太平記』のもののようで、『太平記』は史実をかなり反映しているもののフィクションとしての面も確実にあるので、やや注意は必要です。著者の鈴木由美さんは、その直後の大風の記述を同時代史料と照合して、少なくとも大風が史実だったことを証明していますが、時行の発言が時行軍の行動を左右したかは、いちおう別問題ではあります。
 なお、この同時代史料というのは、高幡不動の文書ということです。高幡不動文書と言えば、この少し後、常陸茨城県)での北畠親房vs高師冬の戦いの厳しさを伝える胎内文書も有名です。うむ。動物園に行く乗換駅とか、京王線から多摩モノレール(「賜物レール」ってなんじゃい?>うちの辞書)への乗換駅とかのところにあるお寺というだけでなく、中世前期からの由緒あるお寺なんだな。

鈴木由美『中先代の乱』について(1)

 中公新書の「中世の乱」シリーズが、呉座勇一『応仁の乱』、亀田俊和観応の擾乱』、坂井孝一『承久の乱』と来て、その最新刊として鈴木由美『中先代の乱』(中公新書、2021年)が刊行されました。「中世の乱」シリーズというのかどうか知らないけど……。
 建武政権南北朝時代の歴史に興味を持つ前の私にとっては、中先代(なかせんだい)の乱といえば、なんかそんな事件が日本史の教科書にそんな話は出てきたなぁ、という程度のできごとだったと思います。教科書に出てくるとしても、ちょろっと事件名がカッコ内に記されている程度で、とても失礼ながら「それで一冊の本が出るの?」というのが最初の印象でした。
 中先代の乱というのは、鎌倉幕府滅亡直後の1335(建武2)年に北条時行建武政権に対して起こした反乱です。それまで京都で後醍醐天皇建武政権を支えていた足利尊氏が、この反乱の鎮圧のために鎌倉に向かい、やがて建武政権に「反旗を翻す」ことになる。北条時行さんは「反乱を起こした」というところにしか出て来ないで、この時行さんが起こした大事件なのに、いつの間にか主役が足利尊氏後醍醐天皇というビッグネームに取られてしまっている。時行さんがその後どうなったかは日本史の教科書には出てきませんでした。中先代の乱自体にはなんの意味もなく、それが足利尊氏建武政権からの離反、そして室町幕府の開創につながったところに意味がある。そんな扱いだったと思います。
 北条時行鎌倉幕府滅亡後に鎌倉幕府の執権を出した北条家の「本家」(得宗家)の子です。父親の高時は鎌倉幕府滅亡のときに自害しています。北条一族の多くがこのときに自害し、京都にいた北条一族も従者たちもろとも自害しているので、北条一族の多くが鎌倉幕府と運命をともにしたのですが、そのなかでも「北条一族のサラブレッド」というべき本家の子が生き残ったのですね。それが時行でした。
 著者の鈴木由美さんは、日本史史料研究会の本で、北条時行や、鎌倉幕府滅亡後の北条氏について積極的に書いておられる方、ということで印象に残っていました。北条時行については、日本史史料研究会(編)『日本史のまめまめしい知識』第一巻収録の論文で「時行」は「ときつら」ではなかったのか、という説を提起されたのですが、現在では「ときゆき」と「ときつら」の両方の可能性がある、という説のようです。

『愛のあいさつ』連載完結

 カクヨムで「【カクヨム新テーマ発掘委員会】『音楽』を題材にした作品募集」に参加して、『愛のあいさつ』を連載していました。
 【カクヨム新テーマ発掘委員会】『音楽』を題材にした作品募集 https://kakuyomu.jp/user_events/16816452220669270036
 『愛のあいさつ』 https://kakuyomu.jp/works/16816452220931077762
 『愛のあいさつ』は2015年に書いた物語です。部活で室内楽をやっている高校生の女子が、エルガーの「愛のあいさつ」を演奏するお話です。
 品切れ状態が続いていたのを、「『音楽』を題材にした作品募集」に合わせて掲載し、募集の最終日の今日(20日)に終了しました。
 終了日に間に合わせるために、先に始めた『やまざくら』よりも後に掲載を始めて、先に完結まで行ったことになります。ちょうど梅雨の時期を描いた物語ですから、季節に合います。
 「『音楽』を題材にした作品募集」は今日午前の時点で280作を超える応募があったようです。
 いくつか、応募作を読んでみました。
 みなさん、すごいです、というのが感想です。
 「いまの現実」と挌闘している、という感の作品もあって、でもしかも文が少しもぴりぴりしていなくて。私にはそこまで「いまの現実」に対抗できないです。そうかと思うと、肩の力を抜いてとても楽しく読める物語もあって。
 「すごい人がいっぱいいるな」と確認しました。

 私は、この『愛のあいさつ』を書いたときは、いま以上に音楽についての知識がなくて、フルートの構えかたも知らなかったのです。もう、フルートの主管を身体の右に構えるか左に構えるかもわかってなくて。写真を見て、自分で構えるふりをして鏡に映してみると、あれ、違う、とか。鏡は鏡像対象になるのであたりまえです。「素粒子のP対称性がぁ!」とか本に書いてるひとが何やってんだ!(2015年にはまだ書いてませんでしたが)
 主人公の千花名のフルートは真鍮(ブラス)ということにしていますが、現実には真鍮のフルートというのはあまり見ないような。調べてみると、銀メッキを施したものか、洋白か銀か金か、あとはクラリネットとかと同じようなグラナディラ(アフリカン・ブラックウッド)製か。プラチナ製もあるそうで……どれも高そう……。
 なんかすごいな、と思います。
 練習用なので金管楽器と同じ真鍮にしたのですが、ほんとうにそういうものがあるのかどうか、店頭かネットで確かめようと書いたときに思って、いまだに確かめていません。
 『やまざくら』の連載も続けています。こちらは4~5月の物語ですから、季節のほうが進んでしまいました。
 『やまざくら』も宣伝しておきます。おっちょこちょいな、というより、自分をおっちょこちょいだと思っている高校生の女子が、とてもまじめで、下級生への要求厳しめな先輩と同じ委員会に配属されて……というお話です。こちらもよろしくお願いします。
 『やまざくら』 https://kakuyomu.jp/works/16816452219877883167

北海道COMITIA14開催中止

 どこにも告知していませんでしたが、じつは北海道COMITIA14に参加する予定でした。
 http://elysian.dojin.com/h-comitia/
 が、開催中止になってしまいました。
 http://elysian.dojin.com/h-comitia/summary.html
 東京都対象の緊急事態宣言が延長された時点で、どうしよう、ということは考えていました。緊急事態宣言の対象地域から他の緊急事態宣言への対象地域への移動は、本人が無事に行って帰ってくることができたとしても、悪い結果をもたらす可能性があります。参加を中止するか、出発直前に検査を受けて、(もちろん検査結果が陰性ならば)北海道での滞在時間をできるかぎり短くするという予定で参加するか、いろいろと検討していたのですが、結果としてイベント自体が中止になりました。
 会場からの要請ということで、どのような条件で中止かはわかりませんが、たとえ会場費支払いがなくてもイベントの中止は主催者に大きな金銭的負担をもたらすという話を聴いたことがあります。もちろん金銭以外の負担も大きいことと存じます。苦渋の選択をしてくださった関係者には心から敬意と感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。
 次回開催:
 11月7日 北海道COMITIA15
に振り替えてくださるということですので、11月にお目にかかりたいと思います。そのときには、今回くやしい思いをした分も取り戻せるようにがんばりたいと思います。
 よろしくお願いします。

「緊急事態宣言延長」の下で

 私の住んでいる東京都を対象とする緊急事態宣言が延長されました。
 今回の宣言延長はやむを得ないと思っています。新型コロナウイルスN501Y変異株の感染力の強さはよくわかっているつもりです。この変異株が広がると医療の危機が起こるまでの時間が短いのも確かなようです。
 ただ、飲食店は、「5月11日が過ぎれば通常営業に戻せる、少なくとも営業時間・酒類提供のへ制限は緩和される」と思っていたところが多いだろうに、という思いはあります。1月もそうでした。年末年始をがまんすれば1月の半ばにはそれ以前と同じ営業を再開できる、という見通しでいたら、その時期にはさらに厳しい緊急事態宣言になっていました。「年末年始やゴールデンウィークなど人出の多い時期の人の流れを抑制すればなんとかなるという見込みで、その時期だけ対象の措置をとる」→「なんともならないどころか状況が厳しくなったのでより厳しい措置へ移行」(12日からは一部緩和を伴いますが)ということの繰り返しは「戦力の逐次投入」に似たものを感じます。ただ、それはそれで理由があったことかも知れないので、きちんと検証して将来に活かしていくことが必要だと思います。
 現在は補償金などの制度も行われているわけですが、店舗経営者などではない私たちには、それがどの程度まで効いているのかわかりません。報道各社はあちこちで「自粛破り」を探し出してセンセーショナルに報道するとかではなく、たとえば補償措置が実際にどれぐらい商店やイベント企業などの経営を支えられているか、きちんと報じてほしいと思います。
 東京都では大型商業施設への閉店の要請が続くということらしいので、そこに入っている店が使えないのはつらい。私のばあい、いつも行っている書店の入っているビルが閉まってしまったので、本を買うのが不便です。現在は(リアルの)書店でしか本が買えないということはないので、めちゃくちゃ不便ということはないですけど、「あの店のあの棚にあったあの本を次に買おう」とか思いながら本を読んで、次に買いに行くことが多いので、「勘が狂う」のは確かです。
 一方で、東京都ではイベント開催の緩和は行うようですので、第三十二回文学フリマ東京は開催されるとのことです。
 https://bunfree.net/event/tokyo32/#covid19_open
 大阪ではイベントは「無観客」以外の開催が不可能となり、関西コミティア61は中止となったようです。
 https://kcomitia.exblog.jp/28585081/
 https://kcomitia.exblog.jp/28585373/
 「アトリエそねっと」はどちらの即売会もサークル参加予定はなかったので、とりあえず「アトリエそねっと」の即売会参加について影響はありませんが。
 ただ、緊急事態になっても仕事は通常どおり継続しているうえに、月末に向けて仕事がさらに増えていく傾向で、私の書き物のほうはけっこうつらい状況になっています。

旧作を温め直しています

 「カクヨム」に『やまざくら』の第3話を掲載しました( https://kakuyomu.jp/works/16816452219877883167/episodes/16816452220036419704 )。
 『やまざくら』は2012年にコピー本3巻で刊行した物語です。それから本(オンデマンド版)にしようとして来たのですが、なかなか作業の時間が取れず、いままで来てしまいました。
 これまでは「本にするのだからネット公開はあと」という考えで来ましたが、考えを変えて、積極的にネットで公開していこうと思っています。せっかく「カクヨム」もpixivもID取りましたし(pixivは https://www.pixiv.net/users/37745082 。まだ小説は掲載していませんが)。「積極的に」と言ったって、編集には時間がかかるので、それほどペースを上げることはできませんけど。
 『やまざくら』は、今月末のGirlsLoveFestival33(https://www.lovefes.info/glfes.htm)に向けて本にしようと思っていて、この外出自粛連休期間中に作業しようと思っていたら、思いもかけず仕事で大幅に時間を取られてしまったので、刊行の実現がかなりあやしくなりました。
 仕事の愚痴は書きませんが……。
 ……まあ、勤め先で進行管理をやってるひとたち、「在宅仕事」の割り振りに慣れてきたな、って感じはしますよね。あと、(これは書いていいと思うけど)4月になって、新年度を期して「アフターコロナ」に向けて出勤仕事を増やしたら、会社の所在地(東京都)が緊急事態宣言の対象になってしまって、あたふたしているところもあります。
 それで、GirlsLoveFestival33に向けては、別に、さらにその前に書いた『木漏れ日の水彩画』の再刊を考えています。高校生二人の百合っぽい物語です。
 このころはまだ書き慣れていなかったので、未熟なところもあります。でも、いま読んでみると「よくこんな感覚をすくい取れた。いまの私では無理」と感じるところもあります。私のような者でも、年の経過とともに、経験を重ねて慣れて行くところもあれば、年齢を重ねて感じ取れなくなっていくものごともあります。両方、同時進行しているという感じですね。「年の功」か、単に鈍くなっただけなのか、「10年前のように書けなくなった」とわかってもいまはそれほど焦らなくなりました。
 『木漏れ日の水彩画』は、『やまざくら』より短いので、刊行まで持って行けると思っていますが、これも仕事の忙しさしだいです。
 それより、ほんとに5月30日、大田区産業プラザPiOで多くの方とお目にかかれれば、と、いまは祈る気持ちでいます。現在は施設利用停止中ですからね。

【重要】緊急事態宣言を受けての施設利用停止のお知らせ|お知らせ|大田区産業プラザPiO