猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

鈴木由美『中先代の乱』について(5)

 なぜ北条時行をはじめとする北条与党が南朝側を選んだか? それはこの時代をめぐる重要な問題につながっているのかも知れません。
 その問題とは。
 「建武政権を継承したのは、足利幕府体制なのか、南朝なのか?」という問題です。

 普通は南朝だと思いますよね?
 建武政権後醍醐天皇が非常に強い指導力を発揮して樹立した体制です。「一から十まで後醍醐天皇のオリジナルではない」という説が最近は強いですが、オリジナルのアイデアではないにしても、後醍醐天皇が強力に推進して実現したのは確かです。
 足利尊氏はその建武政権に反逆し、持明院統光厳上皇を担ぎ出して北朝を樹立した(光厳上皇の弟が光厳上皇の子の待遇で即位して光明天皇になり、光厳上皇院政。ちなみに弟に対しては通常は院政はできません。実際にはほかにも例はありますが)。後醍醐天皇はそれに反発して吉野へと脱出し、後醍醐天皇自身の朝廷を樹立(後醍醐天皇の立場からは再興)した。
 こう見ると、連続しているのは「建武政権南朝」であって、北朝・足利幕府はその「建武政権南朝」の否定の上に成り立っている、ということになります。
 戦前・戦中の「吉野朝正統」の歴史観ではもちろんそうなりますし、現在も、日本史の教科書もはじめ、そういう受け取り方が普通ではないかと思います。

 でも、些細な問題かもしれないけど、「建武」の元号を引き継いだのは足利体制のほうですし(後醍醐天皇南朝側は「延元」に改元)、その建武元号の下で作られた「建武式目」が足利幕府創立の重要な契機になっています。
 細かいことをいえば、後醍醐天皇が吉野に朝廷を立てて(再興して)引き継いだのは直接には「延元政権」である。建武政権‐延元政権(建武政権から足利勢力が離脱)‐南朝と、どこが連続して、どこが連続していないかは、考えるポイントかな、と思います。
 近年の研究では、初期の足利幕府は建武政権を、政策面・人脈面で引き継いでいる要素もあることが明らかにされています。だから「建武政権‐足利幕府」の流れもある。もちろん、足利幕府は京都に存在するので、設備も人材も建武政権のものをそのまま使えたのに対して、吉野に移ってしまった南朝にはそれが十分にできなかった、ということは考える必要はあると思いますが。
 足利幕府側は建武政権を全否定してはいない。「足利幕府は建武政権の後継政権だった」、少なくとも「南朝建武政権の後継政権だが、足利幕府も建武政権の後継政権だった」は言ってもいいのでは、と思っています。

 もし、足利幕府が建武政権の後継者だという感覚がこの時代にあったとすれば。
 そうすると、北条氏の側で、「建武政権はたしかにひどかった(だから中先代の乱で戦った)。しかし、そのひどい建武政権を引き継いだのは尊氏で、南朝も自分たちも尊氏に裏切られた被害者だ」という思いを本気で抱いたとしても当然、ということになります。
 私たちは、「建武政権が何をいちばん変えたか」というと、鎌倉幕府討滅、摂関政治院政の廃止、後醍醐天皇の親裁体制などを思い浮かべます。
 しかし、もしかすると、この時代には、「建武政権のやったことでいちばん大きいのは足利幕府体制をうち立てたことだ」という感覚が(感覚も)あり、それが北条一族にいちばんフィットしたのではないか。
 摂関政治院政を否定した、といっても、南朝は、その後、関白は置いているし、どういう事情かはわからないけれど、生前譲位もしています。後醍醐天皇の親政志向が強烈だったといっても、雑訴決断所のような合議機構も設置しています。親政志向に複数の合議機構の新設が重なり、ごちゃごちゃして批判されたわけですが、私はある程度は「制度の立ち上げの時期ってそういうもんだよね」と思っています。また、年少の、実質的に指導力のない皇子を、有力な臣下に補佐させるという形式で、地方支配機構として「陸奥将軍府」・「鎌倉将軍府」も設置しています。
 だから、時行や他の北条一族は、建武政権が落ち着いてきたら、鎌倉幕府は再建されて、その執権は北条一族のだれかに委ねられるという期待をしたかもしれません。
 ところが、実際に建武政権が再建した「鎌倉将軍府」では、執権の立場に足利直義が入った。それは許せないので攻撃して直義を追い出したら、尊氏が来て鎌倉を再征服した。そして、その勢いで、尊氏は征夷大将軍になってしまった。
 こうなると、鎌倉幕府が再建されたとしても、北条氏は執権になれないし、それどころか将軍が実権を握ってしまって「執権」の出番なんかなくなってしまう。それよりは、南朝のほうに鎌倉幕府再建の可能性を賭けた、という可能性もあります。

 私たちが建武政権の決定的な特徴と思っていることは、当時の北条一族には決定的とは思えなかった。当時の北条一族は、もしかすると、鎌倉幕府は滅亡したのではなく、一時中断しているだけ、と考えたかもしれません。現在の視点から見ればあり得ないことかもしれませんが、当時は、「後醍醐天皇またはその子孫の皇統の下でならば、「鎌倉幕府再興→執権として北条氏再興」の可能性がある!」と信じることができたのかも知れない。
 北条一族にとっては、それよりも、足利尊氏征夷大将軍就任と足利幕府の開創のほうが「不可逆な変化」に映った。北条氏が権力を握るとしたら、将軍は「君臨はするけれど統治はまったくしない」親王将軍でなければならない。足利氏が将軍になって権力を握ってしまえばそんなことはあり得ません。
 足利幕府体制が存在する以上、鎌倉幕府の復活はあり得ないし、北条氏の執権への復活もあり得ない。だから、そちらのほうこそ、全力で否定しなければならない。そして、その「不可逆な変化」を否定するという目標で、北条一族と南朝はごく自然に一致できる。
 それが北条一族の当時の感覚だったのではないか。そして、それは、もしかすると、北条一族だけではなく、この時代にはほかでも抱かれた感覚だったのかもしれない、という可能性を、私は考えています。

鈴木由美『中先代の乱』について(4)

 鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)には、中先代の乱の後、北条時行やほかの北条一族がどうしたかも描いてあります。
 中先代の乱後、北条時行南朝側で戦った。
 しかも、ほかの北条一族(北条与党)の反乱も南朝側で戦った。
 でも、南朝って後醍醐天皇で、後醍醐天皇鎌倉幕府全面否定、とくに北条氏全面否定だったんじゃない?
 なんでそっちに味方するの?

 著者も紹介しているように、『太平記』には、時行が後醍醐天皇に赦免を求めたときのことばが載っています。父の高時が後醍醐天皇に討伐されることになったのは高時個人の問題だが、尊氏の行いは北条氏に対する裏切りで、絶対に許せない、というものなのですが。
 なんか、こう……。
 後醍醐天皇にも尊氏にも味方したくないけど、どっちかというと尊氏の「許せない度」のほうが上だから、という苦渋の選択なのか?
 それとも、ほんとうに、後醍醐天皇が高時を討伐したのは当然、と、わだかまりを抱いていなかったのか?

 どうも「苦渋の選択」のほうではなさそうです。
 時行はその後は一貫して南朝側で、「正平の一統」当時の鎌倉攻撃に参加して敗れて命を落としています。時行の「南朝に味方する!」という決意は強かったと見たほうがいいでしょう。「苦渋の選択」だったら、情勢に合わせて迷ってよさそうなものですが、そういう形跡はありません。また、ほかの北条一族も同じ選択をしている。「苦渋の選択」だったら、ほかの北条一族の対応も割れそうなものなのに、一致している。ということは、やはり、わりと強固な決意を持って南朝に味方した、ということでしょう。

 江戸時代には、前の時代の最高支配者である足利氏の子孫も織田氏の子孫も徳川体制の下に組み込まれて明治を迎えました。しかし、足利体制には、前の時代の最高支配者である北条氏を支配下に組み込む意思はなかった。
 第二代将軍の足利義詮は「母は北条氏、祖父の母も北条氏」という血筋なのに。
 それでも、足利体制が、鎌倉時代末から南北朝時代までの敵対勢力に対しての許容度が低いのは確かだと思います。南朝の子孫(「南朝皇胤」)についても、足利義満が「両統迭立」(北朝の子孫と南朝の子孫を交替で天皇にする)と約束した手前、しばらく存続させますが、第六代将軍足利義教の時代に「みんな僧にして子孫を残させない」という政策に転換します。
 足利体制の側が「北条氏の存在は認めない」という政策を明確に採っていたから時行や他の北条一族は南朝を選択するしかなかったのか?
 それとも、足利体制の側はもっと柔軟だったけれど、時行や北条一族の側のプライドが「足利なんかの手下になってたまるか」と意地を張ったのか?
 それはわからない。
 わからないけれど、この点は、とても重要な問題につながっているのではないかと私は感じます。

 

 ※「鈴木由美『中先代の乱』について(4)」が重複(同じものを二回掲載)してしまいましたので、先に掲載していたほうを削除しました。

益川敏英さんの訃報に接して

 『中先代の乱』(中公新書)についての感想の「連載」の途中ですが、益川敏英さんの訃報に接しましたので、益川さんのことについて書きたいと思います。
 もっとも、益川さんの社会活動については私はよくわからないので、その物理学上の功績のお話が中心です。といっても私は物理学がよくわからないので、私が理解しようとして理解できた範囲での話です。その点はご容赦ください。

 なぜ宇宙が存在しているのか?
 もうちょっと言うと、なぜ「物質のある宇宙」が存在しているのか?
 益川さんは、小林誠さんとともにこの謎を解く鍵となる「小林‐益川理論」を発表されました。このことが評価されて、ノーベル物理学賞を受賞されました。

 「物質がある宇宙」って、宇宙に物質があるのはあたりまえじゃないの?
 何がふしぎなのでしょう?

 「神様が宇宙をお創りになった」という説明が科学的な説明として認められなくなったあと、「ではなぜ宇宙は存在するのか?」という問いがありました。それに対して、ビッグバン理論が出され、それを支えるさまざまな理論が提出されて、「宇宙はなぜ存在するのか?」の説明はできるようになりました(中世史のことを書いていると「かみ」と書くと先に「守」と変換されるようになってしまう。うーむ)。
 ところが、「なぜ物質がある宇宙が存在するのか?」という謎が、20世紀になって生まれてきました。

 20世紀の「困った発見」(科学者たちを困らせる発見)の一つに、「反物質の発見」というものがあります。
 ある物質があれば、それとはある性質だけが(詳しく言うと電荷だけが)まったく逆で、ほかはまったく同じという物質が必ず存在する。それを反物質といいます。
 そして、同じ種類の物質と反物質が出会うと消滅してエネルギーになってしまう。
 エネルギーから物質ができるときにも同じことが起こります。エネルギーが一点にたくさん集中するとそのエネルギーが化けて物質を生み出すのですが、そのとき、物質と反物質を必ず同じだけ生み出すのです。
 このどちらのプロセスも実験で起こすことができるので、理論がまちがっていないことは証明されています。

 で。
 ビッグバン理論によると、この宇宙は想像を絶するエネルギーのかたまりとして生まれました。つまり、この広い宇宙に広がっている全エネルギーが一点に集中していたのですから、それはもう、ことばで表現できるのをはるかに超えるような(と、ことばで表現していますが、まあそれはいいとして)大量のエネルギーだったのです。
 宇宙はエネルギーのかたまりとして生まれたわけですから、そこから物質ができるとしたら、「エネルギーから物質と反物質が同じだけ生まれる」という法則に従えば、宇宙には物質と反物質が同じ分量だけできることになる。
 物質と反物質は出会うと消滅してエネルギーに戻ってしまいます。しかも、物質と反物質はほうっておいても引っ張り合うので、自分からすぐにくっついてエネルギーに戻る。
 ということは、宇宙の中には物質と反物質が同じ量だけあるのだから、宇宙の中の物質はやがて反物質と結びついてエネルギーに戻ってしまい、宇宙にはエネルギーしか存在しないことになってしまう。

 ところが、いま、宇宙には物質がいっぱい存在する。私たちの身の回りの「もの」も、私たち自身も、地球も、太陽もほかの惑星も、それどころか、望遠鏡でごくかすかに見える遠い「銀河」も、基本的に物質だけでできている。
 反物質は存在しません。
 それはそうで、反物質が身のまわりに普通に存在したら、20世紀より前に人類はその存在に気づいていたはずです。しかし、20世紀になって、理論的に「こういうものがあるはずだ」と言われるまで、だれもそんなものの存在は知らなかった。

 電子とかの小さい粒子については、エネルギー反応の結果、たまに「電子の反物質」(「陽電子」といいます)が生まれます。しかし、それは、すぐに電子と結びついてエネルギーに戻ってしまいます(ちなみに「電子の反物質」が近くの電子と結びついて消滅してエネルギーになる反応を利用して人体の中を探ろうという診断法が「PET」と呼ばれる診断法です)。

 物質だけでできた宇宙が存在するという現実がある。
 「エネルギーからは物質と反物質が同じ量だけ生まれ、その物質と反物質は出会うと消滅してエネルギーになる」という理論がある。そして、実験装置で実験してみると、そのとおりの現象が起こる。つまり、エネルギーからは同じ量の物質と反物質が生まれ、それはやがて出会って消滅してエネルギーに戻ってしまうという現実がある。
 矛盾します。
 その矛盾をどう解決するか?

 その矛盾を説明するための理論の一つが「小林‐益川理論」です。

 私たちの世界は物質でできていて、その物質というものは、さまざまな種類の原子核が電子によって何種類かの結びつけかたで結びつけられてできています(「見えない物質」であるダークマターというものはそれとは違うできかたをしているようですが、それについてはここでは触れないことにします)。
 その原子核は、プラスの電気(電荷)を帯びた陽子(ようし)と、電気を帯びていない中性子とが寄り集まってできています。
 ところが、人類が原子爆弾を生み出した第二次世界大戦の前後、原子核を構成する粒子についての研究が進みました。「原子爆弾」といい、「原子力」といっても、そのエネルギーは原子核のものです(だから「核爆弾」とか「核エネルギー」とか言う)。だから、人類が原子核からエネルギーを取り出そうとした時代には、原子核の研究が進んだわけですね。

 で、そういうことを調べていると、陽子と中性子のほかにも「原子核を構成する粒子の仲間」が存在することがわかりました。陽子や中性子に似たものもありましたが、陽子や中性子とは違う「奇妙な」性質を持っている粒子も存在していることがわかりました。そういう、「奇妙な」粒子、または「新奇な」粒子はストレンジ粒子と名づけられました……って英語ではそのまんま。
 で、その奇妙な粒子は、ほうっておくと陽子や中性子に化けてしまって「奇妙」さを失ってしまいます。この変化に何か法則性がないか、ということで、その法則性を説明しようとイタリアの物理学者カビボが「カビボ角」の理論というのを編み出しました。

 この「角」というのは、グラフにしたときの直線の傾きの角度のこと、と、とりあえず説明していいかと思います。確率をその直線の傾きで表現するわけですね。
 一枚のメダルを投げて、表が出るか裏が出るか、という実験をする。
 表が出る確率が2分の1だったとしたら、傾きが2分の1の直線は傾きの角度が45度なので、この「確率の角」は45度いうことになります。100回投げて37回が表ならば、表になる「確率の角」はだいたい30度になりますし、100回投げて63回が表ならば、表になる「確率の角」はだいたい60度になります。100回投げて100回表ならば90度です。
 とても単純化して言うと、「奇妙な粒子」(ストレンジ粒子)が陽子や中性子から生まれたり、逆に「奇妙な粒子」が陽子や中性子になったり、という反応の確率を、この角度で表現する理論がカビボ角の理論です。
 もちろん「グラフの傾きを角度で表現しよう」というだけならべつに素粒子物理学者でなくても考えつくのですが、その方法を使って「奇妙な粒子」の性質の説明に成功したのがカビボの功績だったわけです。

 さて、そうこうするうちに、原子核の研究がさらに進んで、クォーク説というのが出てきました。
 当時の技術では、原子核をどんなに破壊しても陽子と中性子以上には分解できませんでした。
 しかし、陽子は「アップ」という性質(「アイソスピン」という種類の性質です)を担う粒子2つと「ダウン」という性質を担う粒子1つでできている。中性子は「アップ」を担う粒子1つと「ダウン」を担う粒子2つでできている。そう考えると、陽子と中性子の性質を、陽子と中性子以外の「原子核を構成する粒子の仲間」と統一的に把握できるのではないか、という説が提唱されたのです。
 この、陽子や中性子やそれ以外を構成する粒子を何と呼ぶかでひと悶着どころかいくつも悶着があり、最終的に、アイルランドのとても難解な現代小説(『フィネガンズ・ウェイク』)から「クォーク」という名がつけられました。クォークということばを使えば、陽子は「アップクォーク2つとダウンクォーク1つ」、中性子は「アップクォーク1つとダウンクォーク2つ」でできている、ということになります。共通の素材でできているけど、その素材の比率が違うんだ、ということですね。
 こう考えることの利点は「奇妙な」粒子の説明もできることです。その「奇妙さ」を担うクォークというのがあって、それが入っていれば「奇妙な」粒子(ストレンジ粒子)になる、ということで説明がついた。その「奇妙さ」を担うクォークはストレンジクォークと名づけられました。やっぱりそのまんま。

 そして、クォーク説を採用すれば、カビボ角の理論はより明快に説明できるようになった。
 ストレンジクォークは電子一個分のマイナスの電気(電荷)を放出してアップクォークに変化することができます。アップクォークも、電子一個分のプラスの電気(電荷)を放出してストレンジクォークに変わることができる。ここで、ストレンジクォークからアップクォークに変わる確率が、アップクォークからストレンジクォークに変わる確率より圧倒的に大きいから、世のなかには「奇妙な」粒子はほとんど存在せず、アップクォークダウンクォークからできた陽子と中性子ばっかりが普通に存在するんだ。カビボ角の理論を使えば、その説明ができたのですね。

 ところで、ストレンジクォークは性質がダウンクォークと似ていて、ある面でダウンクォークの仲間であると考えることができます。ところがアップクォークと共通する性質を持っている仲間のクォークはほかに存在しないと、そのころは考えられていました。
 ダウンクォークにはストレンジクォークというお仲間が存在するのに、アップクォークには存在しない。
 釣り合ってないじゃん?
 釣り合ってないとなんか気もち悪いじゃん?

 それ以前に、不都合な問題がありました。
 ストレンジクォークアップクォークに(電子一個分のマイナスの電気を放出して)変化することができる。アップクォークは(電子一個分のプラスの電気を放出して)ストレンジクォークに変化することができる。
 アップクォークからダウンクォークへ、ダウンクォークからアップクォークへという変化も同じように起こります。アップクォークが電子一個分のプラスの電気を放出してダウンクォークになる。ダウンクォークが電子一個分のマイナスの電気を放出してアップクォークになる。そういう変化です。
 これは、中性子が陽子に変化してマイナスの電気を帯びた放射線ベータ線)を放出する、陽子が中性子に変化してプラスの電気を帯びた放射線を放出するという、クォーク説が提唱される以前から知られていた現象(「ベータ崩壊」といいます)の説明になっていました。
 「放射能」が問題になるとき、多く問題になるのがこのベータ崩壊です(それ以外もありますけど)。

 アップクォークには、変化する先の選択肢が、ダウンクォークアップクォークの二つがある。そのどっちに変化するかの確率をカビボ角理論が説明したわけです。
 ところが。
 こうなると、ダウンクォークがストレンジクォークに変化する、ストレンジクォークダウンクォークに変化する、という変化が起こってよさそうなものです。むしろ、電子一個分のプラスの電気とかマイナスの電気とか、そういうのを放出する「手間」がないだけ、かんたんに移り変わってよさそうなものです。
 電気の量(電荷)が変化すると、その変化するぶんは高エネルギーの放射線として放出されるので、放射線を打ち出すエネルギーが必要になります。電気の量(電荷)が変化しないダウンクォークとストレンジクォークの移り変わりは、その放射線打ち出しのエネルギーがいらないはずなので、もっとラクに行えるはずです。ラクに行えるはずの変化はもっと頻繁に起こるはず。
 ところが、それが起こっているところは観測できない。

 これを説明するために、仮説が立てられました。
 ストレンジクォークダウンクォークもいつも移り変わっているのだが、ストレンジからダウンへの移り変わりと、ダウンからストレンジへの移り変わりがいつも厳密に同じ率で起こっているので、観測で見つけることはできないんだ、という説です。
 ところが、こうするとまた問題が出てきます。それは、アップクォークにはそういう「ラクな移り変わり」モードが存在しない、という問題です。
 世のなかには、ストレンジクォークはほとんど存在せず、アップクォークダウンクォークがほぼ同じ量存在しています。クォークそのものは観測できないけど、この世のなかの原子核には陽子と中性子がだいたい同じ数(もちろん原子核によって差はあります)入っている。陽子はアップ×2とダウン×1、中性子はアップ×1とダウン×2なので、陽子一個と中性子一個を合わせるとアップ×3とダウン×3になって同じ数になる。世のなかにアップクォークダウンクォークがだいたい同じ数だけ存在しているから、陽子と中性子がだいたい同じ数だけ存在している。
 ところが、ダウンクォークだけが「ラクな移り変わり」モードを持っていると、アップクォークダウンクォークのバランスが崩れて、世のなかにアップクォークダウンクォークがほとんど同じ量だけ存在している、という説明がつかなくなってしまうのです。

 そこで「アップクォークにお仲間が存在しないのは釣り合いが悪い」問題が登場します。じつはそれは存在するのでは? もし存在するとしたら、アップクォークからその「お仲間」への移り変わりと、「お仲間」からアップクォークへの移り変わりがいつも厳密に同じ率で起こっている、ということで、ダウンクォークと条件がそろいます。アップクォークダウンクォークの数がだいたいバランスしている、ということの説明がつくようになります(こんな説明で許してください)。
 つまり4つめのクォークがあるはずだ、それは未発見なだけだ、というわけです。

 ところで。
 クォークにも反物質(反クォーク)が存在します。それも、クォーク一種類ごとに反クォークが一種類存在します。アップクォークには反アップクォークが、ダウンクォークには反ダウンクォークが、ストレンジクォークには反ストレンジクォークが、反物質として存在するのです。
 で。
 ストレンジクォークと反ダウンクォークが結びついて「中性K中間子」という粒子を作ることがあります。「中性K中間子」は、ダウンクォークと反ストレンジクォークでも作られます(「反」がストレンジとダウンのどっちについているかが違う)。つまり、「中性K中間子」には二通りあるのですが、観測しても、「中性K中間子」がどちらの構成でできているかは判別できません。
 で、ストレンジクォークは電子一個分のマイナスの電気(電荷)を放出してアップクォークに変化します。反ストレンジクォークは電子一個分のプラスの電気を放出して反アップクォークに変化します。クォークの構成が変わると「中性K中間子」ではいられなくなりますから、「中性K中間子」は、「ストレンジクォークと反ダウンクォーク」という構成のものも、「ダウンクォークと反ストレンジクォーク」という構成のものも、一定の時間で「中性K中間子」ではなくなってしまうはずです。
 そして。
 物質と反物質の性質が、ある性質(電荷)だけを除いて同じであるならば、ストレンジクォークが(マイナスの電気を放出して)アップクォークに変化するのと、反ストレンジクォークが(プラスの電気を放出して)反アップクォークに変化するのとでは、時間はまったく同じになるはずです。
 ところが、「中性K中間子」の変化を観察すると、「ストレンジクォークアップクォークに変化する」のと、「反ストレンジクォークが反アップクォークに変化する」のとでは時間が違う、ということがわかってきました(これもこんな説明で許してください)。時間が違う、ということは、変化のしやすさが違う、ということですから、「物質の粒子と、反物質の粒子とでは、変化のしやすさが違う」ということになります。
 つまり、ここから、「物質の粒子のほうが変化しにくい」ということが言えれば、この宇宙が物質だけでできている説明が可能になります。

 この、「中性K中間子」で明らかになった「物質の変化のしやすさと反物質の変化のしやすさには差がある」という現象を、「アップクォークにも、ダウンクォークにとってのストレンジクォークに相当する「お仲間」があるのでは?」という説と結びつけて説明できないか?
 この説に基づいて考えたのが、小林誠さんと益川敏英さんでした。
 どうやって考えるかというと、カビボ角の理論をもとに考えるわけです。しかし、考えなければならないことはずっと複雑でした。カビボ角のばあいは二つの種類の粒子だけを考えるので、平面にグラフを書いてみたとしたらその角度は、という考えで理論化できます。しかし、「まだ見つかっていないけれど存在するはずのアップクォークのお仲間」が存在するとすれば、変化する先が増えるので、角度でたとえるとしても「三次元の角」というのを考えなければならなくなります。
 そして、この説に基づいて計算して見ても、どうしても計算は合わなかった。
 それで、行き詰まっているときに、「未発見のクォークが1種類ではなく、3種類あれば、理論は完成するのでは?」と思いついたのが益川さんだったということです。いま確かめられないのですが、お風呂に入っていて思いついて、それを電話で小林さんに伝えた、というような逸話があったように記憶しています。
 こうなると、四次元の角というのを考えなければいけないので、計算がめちゃくちゃ難しくなります。
 ちなみに、高校で「行列」(行列式)というのを習って、「数字と変数をカッコに入れて書きかた変えただけじゃん! なんでこんなのを勉強しなきゃいけないんだよ?」と思っている高校生、受験生の方!
 ここで小林さんと益川さんがやった計算は行列式がないとできないのです(なくてもできるかも知れないけどめちゃくちゃややこしくなる)。
 つまり、行列というのは、大学で物理学をやる上では必須なので。
 理系で進学するなら、大学に入るまでにちゃんと身につけましょう。
 (とか理系がわからない人間が書いても説得力ないよなぁ……)。

 で、「未発見のクォークが3種類」でやってみると、計算が成り立ち、しかも、物質の粒子と反物質の粒子で変化の率が違うという説明も成立した。これを説明する式をカビボ‐小林‐益川行列(CKM行列)という行列式で、この理論を「小林‐益川理論」といいます。
 またちなみに、この「変化の率が違う」ということの説明には「虚数」というものが関わってきます。そこで。
 「なんで実際に存在しない虚数なんてものを勉強しなきゃいけないんだよ?」と思っている高校生・受験生の方!
 虚数はこういうところで使うので、大学に入るまでにちゃんと身につけましょう(ノーベル賞級の研究だけではなく、もっと初歩の電磁力学とかでも使いますよ)。

 まだ「アップクォークのお仲間があるはずだけど見つからない」と言っていた時期で、「アップクォークのお仲間があと2種類、ダウンクォークとストレンジクォークのお仲間もあと1種類、見つかっていないけど、存在するはず」という前提で作られたのが小林‐益川理論でした。
 これを提唱するのは勇気が要ったと思います。
 だいたいクォークモデルすらまだ十分に信頼されていないという時期だったのです。

 まもなくアップクォークの「お仲間」は発見されました。チャームクォークといいます。ストレンジクォーク「奇妙な」とペアを組むので「魅惑的な」・「魔法の」ですね。
 しかし、アップクォークの「お仲間」が1種類あるはず、という理論は、小林‐益川理論より前からあったので、これだけでは小林‐益川理論が証明されたとは言えません。
 そのあと、「ダウンクォークとストレンジクォークのもう一種類のお仲間」も発見され、一挙に小林‐益川理論が成り立つ可能性が上がりました。このクォークはボトムクォークと呼ばれています。あと一種類、アップとチャームのもう一種類のお仲間の発見は1990年代までずれ込みましたが、無事に発見され、トップクォークと名づけられました(というか、トップクォークという名のほうが先にありました)。
 これで、小林‐益川理論の「クォークは6種類ある」という説は証明されたのですが、「クォークが6種類あれば、物質の粒子と反物質の粒子で変化の率が違うという現象が発生する」というところはまだ証明されていません。
 「中性K中間子」の崩壊は説明できますが、もともとそれを説明するために作った理論なので、それが説明できるのはあたりまえです。
 しかし、別の現象の説明ができ、その「別の現象」からも「物質の粒子と反物質の粒子で変化の率が違う」ということが同じように言えるならば、小林‐益川理論は正しい、ということが言えるようになります。その検証には、ダウンクォークと反ボトムクォーク、またはボトムクォークと反ダウンクォークでできている「中性B中間子」が使われました。
 この実験のために、筑波の実験施設で、中性B中間子を大量に生成しました(同じ種類の粒子を工場のように大量生産するのでこの実験施設を「Bファクトリー」といいます)。
 中性B中間子も「ダウンクォークと反ボトムクォークでできているもの」と「ボトムクォークと反ダウンクォークでできているもの」の区別は観測できません。しかし、それが変化して行くモードを、光が1ミリ進むよりも短い時間で観測すると、もしボトムクォークと反ボトムクォークの変化の率に違いがあれば、観測結果にある偏りが生じるはずなのです。
 そして、その偏りが理論が予測するとおりに発見されたので、小林さんと益川さんがノーベル物理学賞を受賞した、というわけです。

 では、小林‐益川理論だけで、この宇宙が物質だけでできているということの説明がつくかどうかと言うと、まだよくわかっていません。たとえば、スファレロンと呼ばれる、「空間の相転移」の一種が関係しているとも言われます。また、「大統一理論」という理論で物質と反物質の偏りが生まれる可能性もあり、その「大統一理論」はいまも「カミオカンデ」系列の実験装置などで検証が進められています。

 益川さんが書いておられたことで、他に印象が残っているのが、人間が乗った宇宙機の内部の気温をどうコントロールするか、というお話です。
 地球のすぐ外の宇宙では、太陽に照らされるとめちゃくちゃ熱くなりますし、太陽が照っていないほうは宇宙の温度(マイナス200度よりも低い)になってしまうので、ほうっておくと、一つの宇宙機の太陽側と日陰側で200度とかの温度差ができてしまう。無人ならば回転させてまんべんなく太陽が当たるようにすればいいのですが、人間が乗っているのでそれはできない。そこで、アンモニアが、熱いところでは気化し、冷たいところでは液体になり、液体になると毛細管現象で熱いほうに戻って行くという性質を利用して、毛細管現象が働きやすいように内側に細かい網を張った金属パイプにアンモニアを封じ込めて宇宙機の壁にそのパイプをめぐらせる、という方法で、内部の温度を均等にした。
 そして、その技術は、すぐにステレオのアンプを冷やす技術として応用された。
 宇宙機の熱をどうやってコントロールするかなんておよそ一般社会に役立ちそうにない技術ですが、それが日常的に使う音響機材に応用される。どんな特殊な発明がめぐりめぐって日常生活に役立つかわからない。科学の発明とか発見とかはそういうものなのだから、「日常に役に立つ/役に立たない」というところで最初から決めつけるものではない、という実例だったと思います。

 できれば、益川先生には、宇宙が物質だけでできている事情がもっとよくわかるまで、この世で見届けていただきたかった、と思います。
 このささやかな文章をもって、私のお別れのことばとさせていただくことにします。
 益川先生ありがとうございました。

鈴木由美『中先代の乱』について(3)

 この本の最大の特徴は、その中先代の乱を、建武の新政の時期から南北朝時代にかけて続く「北条与党」の反乱のなかに位置づけたということではないかと思います。
 「北条与党」というのは、北条氏の人びととその家臣(被官)をまとめたものです。現在の感覚だと「与党」というのは政権側なので、「与党の反乱」というのはあまり穏やかじゃないですけど。いや「北条与党の反乱」も穏やかじゃないですけどね。
 「与党」というのは「味方をする(与る)人びとの集まり(党)」なので、「わたし政権の味方です」という人たちの集まりが議会政治の与党、「わたし北条氏の味方です」という人たちの集まりが「北条与党」です。

 で。
 この中先代の乱以外にも北条与党の反乱はたくさん起こっていました。建武政権期(元弘3年~建武2年、1333~1335年)だけで、事件数は中先代の乱を含めて15件、ほかに、関連性不明のものが11件ということです。
 高校の日本史には出てこなかったけど、北条与党の反乱というのは建武政権期の一つのトレンドだったんですね。
 この本にはその北条与党の詳細な反乱リストが根拠資料をいちいち挙げて掲載されています。なんかこないだうちの職場で作った業務目標達成度報告書を思い出して苦笑い……。私はその作業には直接にはかかわってないけど、「こういうの作るのってたいへんなんだ」ということはわかりました。だから、このリストが作者の労作である、ということがとてもよくわかります。

 この北条与党の反乱に注目したのは著者が最初ではなく、佐藤進一『南北朝の動乱』ですでに検討がなされているということです。
 この佐藤進一『南北朝の動乱』というのはすごい本で、もちろん初出1965(昭和40)年という時代の制約はあるけれど、その後、建武政権史や南北朝時代史で議論される問題をいろいろ先取りしています。
 この北条与党の反乱についてもそう、ということです。
 で、その佐藤進一説の論点を著者の鈴木由美さんが再検討しています。
 大ざっぱに(そのぶん不正確に)まとめれば、反乱はそれまで北条氏が守護を務めていた国で多く発生していて、守護としての北条氏が築いた地盤に基づいて起こっている、それが、その地方の事情や中央での動きと連動しているばあいもある、というのが佐藤進一説です。
 著者による検討結果も大ざっぱに(そのぶん不正確に)まとめると、たしかに北条氏が守護を務めた国で反乱が起こっている例が多いが、「北条氏が守護を務めていた国」自体が圧倒的多数なので、関連性は明らかとは言えない。北条氏も内部でいくつもの「家」に分かれていて(本家=得宗家のほかに名越家、赤橋家、金沢家など)、守護を務めていた「家」とは別の「家」の北条氏の人物が反乱の主となっているばあいもある。またとくに地域との関係がなさそうなのに北条氏の人物が主になって反乱を起こしているばあいもある、というものです。
 北条氏に属する人物やその周辺の人物、つまり北条与党に北条政権復活への意志があり、地域に建武政権への不満があって、それが濃淡さまざまな割合で混じり合って、「北条氏の人物を担いだ反乱」として現れた。この点はたぶん佐藤進一説とそれほど違いはない。ただ、著者の説は、それが、守護として築いた地盤とは関係なく「北条一族を反乱の主にする」という動きとして起こっているばあいがある、ということです。地元とつながりがなくても、「北条一族の者」というだけで、反乱の主に担がれる理由になった、ということですね。
 「北条氏であること」にはそれだけの意味があったのです。

 ところで、日本史で鎌倉時代の歴史を学んでいて、ふと感じる疑問に「源頼朝に始まる源氏の幕府と、源氏将軍が断絶した後の北条氏の幕府は、同じものなのか?」というのがあるんじゃないか、と思ったり。
 もし北条氏が将軍になっていれば、「源氏幕府」と「北条幕府」は、同じ鎌倉に存在したとしても、もっとはっきり区別されていたでしょう。
 北条氏はけっきょく自分では将軍にならなかった。それは「北条氏の弱さ」なのか? つまり「北条氏はできれば将軍になりたかったけどなれなかった」のか? それとも、北条氏は北条氏であるというだけで十分で、「将軍になる必要なんかなかった」のか?
 これは私にはよくわからないところです。

 ただ、少なくとも関東の人たちや御家人に対しては、主要御家人の生き残り競争に勝ち抜いた後の北条氏は「将軍になる必要なんかなかった」のでしょう。
 北条一族であるというだけで幕府の権力を握れる。「握れる」というのですらなく、「握るのが当然として、だれも疑わない」ということになった。そのときから、幕府の最高指導者が、特別な一族である北条氏の本家の家長(得宗)であるという体制が決まった。だいたい、執権北条時頼の時代の後半から、ということになるでしょう。
 そして、蒙古襲来の後、その北条一族の権威と権力は、「関東・御家人」の枠を超えて、全国に拡がって行きます。全国の過半の「国」の守護は北条氏の一族が握り、海上交通なども北条氏が握った。まだ鎌倉幕府だけが「全国政権」という時代ではなく、朝廷・院や権門貴族(中央の有力貴族・有力寺社)も全国に影響力を持っている時代でしたが、その鎌倉幕府についていえば、「鎌倉幕府の最高指導者は北条氏!」という常識が全国に定着した。
 一方で、源氏将軍時代が終わった後の将軍は、藤原氏摂家(摂政・関白を出せる家柄。ここでは九条家)の摂家将軍九条頼経・頼嗣)、後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王系の皇族将軍(宗尊親王惟康親王)、持明院統後深草天皇の子孫)の皇族将軍(久明親王守邦親王)と続きます。
 そこそこ「将軍らしい」動きを見せていた摂家将軍の時代から、宗尊親王系の将軍の時代になると、将軍が将軍として目立つ機会がなくなります。目立つのは将軍追放の局面ぐらい、みたいな程度になってしまう。そのあとの持明院統将軍になると、久明親王が北条氏と関係が良好だったことがうかがえるものの、「将軍として何をやっていたか」はわからなくなる。守邦親王はほとんど存在感がない。この本にも書いてあるとおり、後醍醐天皇が「倒せ」と指令している相手は、「地方役人(在庁)の北条高時」であって、幕府のトップのはずの守邦親王は無視されています(なお、本書で、著者は、宗尊親王系統を「持明院統将軍」に含めていますが、少なくとも血統的には宗尊親王大覚寺統持明院統分裂前の親王なので、著者があえて持明院統に含めるのはなぜなのか、私にはよくわかりません)。
 摂家将軍時代はともかく、宗尊親王が将軍になってからは、将軍は存在感がない。現実の政治権力を集中できる存在ではない。
 じつはこの点は過去には議論があって、1980年代、日本中世史をいっきょに人気のある学問に押し上げた網野善彦さんは、宗尊親王系の時代に、将軍を「公方」として(「公方」は将軍の通称として江戸時代末まで使われます)「徳政」の中心に位置づける運動があった、という議論を提起したことがあります(『蒙古襲来』)。ただ、もしそういう運動があったとしても、それを推進したのは北条氏本家(得宗家)の母方の血筋に連なる安達泰盛だった、ということなので、けっきょくは「北条氏の権威がなければ将軍を持ち上げることもできなかった」ということになります。また、現在では、この網野説をそのまま信じる専門家はほとんどいないと考えていいと思います。

 北条氏は、「北条氏である」というだけで将軍以上に権威ある特別な一族であって、けっして「将軍になろうとしてもなれない弱さ」を抱えていた一族ではない、と見たほうがいいのではないでしょうか?

鈴木由美『中先代の乱』について(2)

 北条時行は、信濃諏訪大社の神官一族にかくまわれていました。この時行が反乱を起こし、信州から碓氷峠を突破して荒川の西側を南下、小手指、府中(武蔵国府)から多摩川を渡って鎌倉に至っています。現在の鉄道線路は東京(江戸)を中心にできているので、「鎌倉に急ぐために不便なところを無理に直線ルートで行っている」という感覚を持ちますが、当時はこれがメインルート(「鎌倉街道」の一つ)なのだそうです。
 また、「諏訪からだったら、あずさに乗って立川で南武線に乗り換えて、小田急線に乗り換えて藤沢に出れば? わざわざ北陸新幹線ルートをとる必要ないじゃん?」と思うのだけど(あーこんな夏の天気のいい日には藤沢とか鎌倉とか行きたい! 東京都在住だからダメだけど)。つまり、信濃から甲斐に出て、小仏峠を越えて、高尾山の麓から南下したほうがずっとショートカットできるのに……これは、なんでなのかな?
 碓氷峠アプト式に乗ってみたかったとか、電気機関車の補機を連結するのを見たかったとか、峠の釜めしを買いたかったとか、ではないし。
 一つは、関東に出る前段階に信濃守護との戦いがあり、そのために諏訪から北上して、そこから東へ向かったから、いまの中央線ではなく北陸新幹線ルートになった、ということでしょう。
 また、現在の群馬県から群馬‐栃木県境地帯(両毛地方)は、新田氏も含めた足利氏の本拠地で、そこを通過することに何か意味があったのかもしれません。ただ、時行の進撃ルートを見ると、足利・新田一族の本拠地よりも西を南下しているようですが。
 このルートは、この「乱」の少し前に新田義貞鎌倉幕府打倒のために南下したルートでもありますし、このルートをたどると行軍への参加者を募りやすい、ということがあったのかもしれません。
 この本によれば、時行の信濃での挙兵の日は確定できないようです。6月23日~7月14日のあいだのどこかで、現在の7月後半から8月前半です(著者は6月23日を有力と見ているようです)。7月18日には関東に入っています。現在とは気候が違い、気候が寒冷になり始めた時期ではありますが、夏の関東平野、暑いぞ! 甲冑を身につけていたりするとさらに暑い。熱中症予防情報とかが出て合戦禁止だ! まあ、その686年後、そんな暑い夏の関東平野で国際的な大規模なスポーツ大会をやってるみたいですから、いいのかもしれませんけど。建武年間には「コロナ禍」がないからまし、かというと、現在よりもずっと衛生環境は悪かったわけですから、そんな時期の夏に合戦で負傷したりするとめちゃくちゃきつい。
 その暑い関東平野を一週間ほどで南下し、7月24日には時行は鎌倉に入っています。電車のない時代に、しかも合戦しながらこのスピードなので、速い。24日というのは、著者鈴木由美さんによる同時代史料からの推定で、『梅松論』・『太平記』などの有名文献では日付が違っているようですが、長くても10日ぐらいで踏破しています。
 鎌倉には、建武政権後醍醐天皇)側の「鎌倉将軍府」があり、尊氏の弟の足利直義が実質的に鎌倉将軍府を率いていたのですが、鎌倉で決戦することは避けて、足利氏の本拠地の一つである三河(愛知県東部。後に徳川家康の出身地になる)にまで退去します。
 ここで、京都にいた足利尊氏後醍醐天皇に願い出て、北条時行討伐のために出発します。尊氏が征夷大将軍任官を望んだのを後醍醐天皇が拒否した、というのはよく知られていますが、尊氏が軍を率いて東へ出発することは少なくとも黙認はしていたようで、征夷大将軍後醍醐天皇の皇子の成良親王としたうえで、尊氏を「征東将軍」に任じています。
 尊氏は8月2日に京都を出発して、三河で弟の足利直義と合流し、浜名湖の西岸、遠江三河国境(現在の静岡‐愛知県境)の橋本で時行軍を撃破して東へと進撃しました(引用されている『梅松論』の記述だと、時行側が浜名湖を渡って西に出て拠点を築いたので、尊氏軍の一部が浜名湖を逆向きに渡ってその退路をふさぎ、時行軍を孤立させたように読めます)。これが8月9日なので、京都出発から一週間後、そのまた約一週間後の17日には各所で合戦をしながら箱根を越えています。こちらも、合戦の頻度は低いものの、けっこう高速という印象です。
 ま、当時もいまも軍隊というのはメシを食いながら移動する集団なので、兵糧がどれだけもつかを考えると、身体的にきつくても移動は速いほうがよかったでしょう。また、地元民としても、軍隊がゆっくり移動すると、物資をさらって行ったりトラブルを起こしたりと迷惑なので、たぶん軍隊はサッときてサッと去ってくれるほうが歓迎だったでしょう。ただ、「うちに参加すると、戦いに勝ったら所領が増えますよ」みたいな宣伝はしながら進む。それで勢力は増大する。勢力が増大すると食うメシの量も増えるので、やっぱり高速移動のほうが有利だ。だから、勝ちそうな勢いの軍隊なら、宣伝しつつ高速移動したほうがよかったのでしょうけど。
 ただ、尊氏軍の西からの鎌倉攻撃はそれほどたやすくはなかったようで、18日に相模川(当時の流路は現在よりも東寄りで茅ヶ崎市内か)、19日にも辻堂・片瀬原(江ノ島の西側あたりでしょう)で合戦があり、19日に時行側の主要メンバーが鎌倉で自害して時行側の敗北に終わるという流れです。たしかに箱根から2日で鎌倉に入っていますが、時行側の抵抗もけっこう厳しかったらしい。時行はこのとき脱出に成功しています。
 ところで、時行は著者の推定で1329/1330年(元徳元年12月)生まれ、もっと歳上だとしても、兄の邦時が1925年年末(正中2年11月)生まれなので、1926年以後の生まれになります。鎌倉幕府滅亡が満年齢で3歳、この中先代の乱のときには満年齢で5歳です。最大限に歳上の推定をとっても満年齢で9歳です。それで、敵の本拠である三河との国境まで軍を派遣して戦おうという積極策は時行自身の意思ということで。
 しっかりしている、と言うべきなのか。
 ともかく、時行の発言が戦略を決定するくらいの影響力はもっていたようです。
 ただし、この記述は『太平記』のもののようで、『太平記』は史実をかなり反映しているもののフィクションとしての面も確実にあるので、やや注意は必要です。著者の鈴木由美さんは、その直後の大風の記述を同時代史料と照合して、少なくとも大風が史実だったことを証明していますが、時行の発言が時行軍の行動を左右したかは、いちおう別問題ではあります。
 なお、この同時代史料というのは、高幡不動の文書ということです。高幡不動文書と言えば、この少し後、常陸茨城県)での北畠親房vs高師冬の戦いの厳しさを伝える胎内文書も有名です。うむ。動物園に行く乗換駅とか、京王線から多摩モノレール(「賜物レール」ってなんじゃい?>うちの辞書)への乗換駅とかのところにあるお寺というだけでなく、中世前期からの由緒あるお寺なんだな。

鈴木由美『中先代の乱』について(1)

 中公新書の「中世の乱」シリーズが、呉座勇一『応仁の乱』、亀田俊和観応の擾乱』、坂井孝一『承久の乱』と来て、その最新刊として鈴木由美『中先代の乱』(中公新書、2021年)が刊行されました。「中世の乱」シリーズというのかどうか知らないけど……。
 建武政権南北朝時代の歴史に興味を持つ前の私にとっては、中先代(なかせんだい)の乱といえば、なんかそんな事件が日本史の教科書にそんな話は出てきたなぁ、という程度のできごとだったと思います。教科書に出てくるとしても、ちょろっと事件名がカッコ内に記されている程度で、とても失礼ながら「それで一冊の本が出るの?」というのが最初の印象でした。
 中先代の乱というのは、鎌倉幕府滅亡直後の1335(建武2)年に北条時行建武政権に対して起こした反乱です。それまで京都で後醍醐天皇建武政権を支えていた足利尊氏が、この反乱の鎮圧のために鎌倉に向かい、やがて建武政権に「反旗を翻す」ことになる。北条時行さんは「反乱を起こした」というところにしか出て来ないで、この時行さんが起こした大事件なのに、いつの間にか主役が足利尊氏後醍醐天皇というビッグネームに取られてしまっている。時行さんがその後どうなったかは日本史の教科書には出てきませんでした。中先代の乱自体にはなんの意味もなく、それが足利尊氏建武政権からの離反、そして室町幕府の開創につながったところに意味がある。そんな扱いだったと思います。
 北条時行鎌倉幕府滅亡後に鎌倉幕府の執権を出した北条家の「本家」(得宗家)の子です。父親の高時は鎌倉幕府滅亡のときに自害しています。北条一族の多くがこのときに自害し、京都にいた北条一族も従者たちもろとも自害しているので、北条一族の多くが鎌倉幕府と運命をともにしたのですが、そのなかでも「北条一族のサラブレッド」というべき本家の子が生き残ったのですね。それが時行でした。
 著者の鈴木由美さんは、日本史史料研究会の本で、北条時行や、鎌倉幕府滅亡後の北条氏について積極的に書いておられる方、ということで印象に残っていました。北条時行については、日本史史料研究会(編)『日本史のまめまめしい知識』第一巻収録の論文で「時行」は「ときつら」ではなかったのか、という説を提起されたのですが、現在では「ときゆき」と「ときつら」の両方の可能性がある、という説のようです。

『愛のあいさつ』連載完結

 カクヨムで「【カクヨム新テーマ発掘委員会】『音楽』を題材にした作品募集」に参加して、『愛のあいさつ』を連載していました。
 【カクヨム新テーマ発掘委員会】『音楽』を題材にした作品募集 https://kakuyomu.jp/user_events/16816452220669270036
 『愛のあいさつ』 https://kakuyomu.jp/works/16816452220931077762
 『愛のあいさつ』は2015年に書いた物語です。部活で室内楽をやっている高校生の女子が、エルガーの「愛のあいさつ」を演奏するお話です。
 品切れ状態が続いていたのを、「『音楽』を題材にした作品募集」に合わせて掲載し、募集の最終日の今日(20日)に終了しました。
 終了日に間に合わせるために、先に始めた『やまざくら』よりも後に掲載を始めて、先に完結まで行ったことになります。ちょうど梅雨の時期を描いた物語ですから、季節に合います。
 「『音楽』を題材にした作品募集」は今日午前の時点で280作を超える応募があったようです。
 いくつか、応募作を読んでみました。
 みなさん、すごいです、というのが感想です。
 「いまの現実」と挌闘している、という感の作品もあって、でもしかも文が少しもぴりぴりしていなくて。私にはそこまで「いまの現実」に対抗できないです。そうかと思うと、肩の力を抜いてとても楽しく読める物語もあって。
 「すごい人がいっぱいいるな」と確認しました。

 私は、この『愛のあいさつ』を書いたときは、いま以上に音楽についての知識がなくて、フルートの構えかたも知らなかったのです。もう、フルートの主管を身体の右に構えるか左に構えるかもわかってなくて。写真を見て、自分で構えるふりをして鏡に映してみると、あれ、違う、とか。鏡は鏡像対象になるのであたりまえです。「素粒子のP対称性がぁ!」とか本に書いてるひとが何やってんだ!(2015年にはまだ書いてませんでしたが)
 主人公の千花名のフルートは真鍮(ブラス)ということにしていますが、現実には真鍮のフルートというのはあまり見ないような。調べてみると、銀メッキを施したものか、洋白か銀か金か、あとはクラリネットとかと同じようなグラナディラ(アフリカン・ブラックウッド)製か。プラチナ製もあるそうで……どれも高そう……。
 なんかすごいな、と思います。
 練習用なので金管楽器と同じ真鍮にしたのですが、ほんとうにそういうものがあるのかどうか、店頭かネットで確かめようと書いたときに思って、いまだに確かめていません。
 『やまざくら』の連載も続けています。こちらは4~5月の物語ですから、季節のほうが進んでしまいました。
 『やまざくら』も宣伝しておきます。おっちょこちょいな、というより、自分をおっちょこちょいだと思っている高校生の女子が、とてもまじめで、下級生への要求厳しめな先輩と同じ委員会に配属されて……というお話です。こちらもよろしくお願いします。
 『やまざくら』 https://kakuyomu.jp/works/16816452219877883167