猫も歩けば...

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平勢隆郎『都市国家から中華へ』と岡野友彦『源氏と日本国王』のつづき

 今回の更新で掲載した評(→「特権的古代史からあたりまえの古代史へ(第2回)」)では、「春秋時代までの中国を都市国家の時代として描く」という平勢さんのコンセプトを活かすように、平勢さんもあまり使っていない「都市国家同盟」という捉えかたを軸に「平勢古代史」を整理してみた。平勢さんの意に反するところもあると思うが、そこは私の読み込み不足ということでなんとかご容赦願いたい。
 で、7月4日と10日の日記(id:r_kiyose:20050704、id:r_kiyose:20050710)でも採り上げた平勢さんの本と、7月5日と27日の日記(id:r_kiyose:20050705、id:r_kiyose:20050727)で採り上げた岡野友彦さんの『源氏と日本国王』との両方について。
 岡野さんは、日本の「姓」の仕組みが、奈良時代までの「氏」に与えられた「臣」・「連(むらじ)」などの称号から「氏」の名そのものに変わり、その後にこんどは「氏」の名まえが「家」の名まえと混同されて、明治の民法で「姓」が「家」の名まえに変化したという過程を書いている。そこで思い出したのが平勢さんの本に出てきた古代中国の「姓」についてだ。
 周の時代までは、中国ではだれにでも「姓」があったわけではない。また、「姓」というのは支配者集団の名まえであって、現実に血縁関係があったかどうかはわからない。たとえば、殷には「甲、乙、丙、丁……」がつく称号を持つ王が多く、『史記』などではそれは兄弟のように記されているけれど、じつは10集団が一つの「姓」集団を作っていて、その10集団が順繰りに王を出していたというのが真相らしい(それにしても、『史記』の「系図」と、『史記』の時代には埋まっていて参照できなかったはずの出土史料から復元できる「系図」とがほぼ一致するというのは驚きである。殷の滅亡から『史記』が書かれるまで1000年ぐらいの隔たりがあるのに!)。また、周の二代目(文王から数えれば三代目)の王成王は、父武王(「統一王朝」初代の王)の弟である周公(たん)に養育されたとされているが、周公旦も武王の実弟というよりは周の王を出す「姓」集団のなかで王家の「弟」的な位置づけを与えられた一族の代表者だったのだろう。
 ところが、そのうち、周王朝が独占していた漢字が広まり、しかも周王朝以外に支配的地位に就く人びとが出てくる。そういう人びとの血族集団が王朝に倣って「姓」を名のりはじめ、中国では父系氏族集団の名まえが「姓」になった。それはそのまま現在にいたっている。
 岡野さんは、日本では古代から近世まで「氏‐姓」と「家‐苗字」が別々のものとして残っていたことを強調する。この仕組みが混乱するきっかけになったのが「戦国時代の下克上」だったというところが、平勢さんのいう中国古代の「姓」の仕組みの変化と同じで(「戦国時代」の年代がだいぶ違うが)おもしろい。日本と中国の「姓」や「氏」や「家」の仕組みを交叉させて見るとけっこう興味深いことが見えてくるのではないだろうか。もっとも、日本と中国とでは、歴史も文化も、文化圏の広さも違うので、安易に比較できないところが難しいところだけど。