猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「回顧的押井守論」の補足など(第二回)

 「召命」をめぐる議論は、グノーシス派の「神」観と、押井作品に出てくる「現場監督」観を合わせて作り上げたものだ。そのどちらから考えるかで議論は食い違ってくる。最初に書いているときにはその食い違いに気がつかず、あとで手を入れたので、まず最初の「召命」論がわかりにくくなってしまったと思う。
 だいたい「召命」などというキリスト教の宗教用語を使ってよかったのかもよくわからない。まあ、浄土真宗の「他力本願」に見るように、宗教用語というのは、その宗教の信者以外には、誤解されて別の使いかたをされるものなので、いいことにしよう。

 グノーシス派の「偽造物主」(デミウルゴス)論では、「偽造物主」自身は上位の創造神についてはまったく意識していないことになっている(と思う)。これだと「召命」意識は生じようがない。「偽造物主」が「上位の創造神からの召命意識」を持たずに好き勝手なことをやるのがこの世の悪の根源だとグノーシス派では考える。そこで、真の創造神が創造した世界についての知識(これが「グノーシス」)を得ることでその「偽造物主」の世界から離脱し、真の光の世界に復帰することをグノーシス派は目指す。
 一方で、押井作品の「現場監督」的なキャラクターは、自分に使命を与え、行動の規範を与えたものが存在すること、そしてその使命と規範には従わなければならないことは知っている。
 この「現場監督」的なキャラクターとは、たとえば、『パトレイバー』の後藤、『Stray Dog』の都々目紅一、『御先祖様万々歳!』の四方田甲子国、『Talking Head』の〈私〉などである。後藤は「警察官の使命と役割」について頑固な自覚を持っており、そのために現実の警察組織の行動からははみ出した行動をとる。都々目紅一もケルベロス隊の一員としてやらなければならない使命を強く意識している。四方田甲子国は「四方田家」の家長としての意識に支配されている。『Talking Head』の〈私〉の場合は、何の手がかりもなく失踪した本来の監督が、ひいては「映画」そのものがその使命と規範とを与えている。
 しかも、これらの「現場監督」的なキャラクターは、自分がその使命と規範に従っていればいいというだけではなく、自分の部下をそれにしたがって動かしていかなければならない。
 警察官の使命と規範、家長の使命と規範、そして「映画」そのものが与える使命と規範という「上位のもの」と較べると、後藤や紅一や甲子国や〈私〉の能力は限られているし、できることも限られている。この世に身体を持って一人の人間として生きるものとしては、そんな「上位のもの」に十分に応えられる行動などできるはずがない。しかし、ともかくも、部下をまとめて動かしていかなければ、その「上位のもの」の与えたもの(と本人が思っているものごと)を実現していくことすらできないのだ。
 「偽造物主」は「上位のもの」の存在を知らず、「現場監督」は「上位のもの」の存在を疑わない。グノーシス派のいう「偽造物主」は「上位のもの」にかかわらず好き勝手なことを行って世を堕落させる。「現場監督」は「上位のもの」が与えたものに忠実に従いながら、なんとかその期待に応えようとして、失敗したり、たいせつなものを失ったりする。ここに大きな違いがある。
 しかし、押井守作品の「現場監督」的なキャラクターとは、「本来の創世神がいることに気がついてしまった偽造物主」なのではないか? そう考えてみたらどうなるだろう――という思いつきで書いたのが、今回の私の押井作品論である。
 自分に使命と規範を与えている「上位のもの」として「本来の創世神」がいることはわかった。けれども、その「本来の創世神」は現場を動かしてはくれない。現場を動かすことができるのは、「本来の創造神」から「流出」を繰り返して生まれ、「神」の資質を十分に身につけていない自分以外にはない。だから、どんなに「この偽造物主のおかげで世のなかが悪くなった」と言われようと――つまり「この監督のせいでこの現場はめちゃくちゃだ」と非難され、呪われようと、「本来の創造神」から与えられたミッションを達成するためには自分が現場を率いつづけなければならない。自分に与えられた崇高な使命と規範と、自分の下にいる出来の悪い部下たち、そして自分の能力のなさ――そういう悪条件の下で苦闘する「偽造物主」が、押井守作品の「現場監督」キャラではないかという議論を立ててみたのだ。

 「劣化コピー」が繰り返されることで「召命」は「召命」らしくなるという議論も、べつに論理的に証明してはいない。
 これを思いついたのは、まず『とどのつまり』にそれを思わせる表現があったはずだというあやふやな記憶からだ。ただ、それが具体的にどういう表現だったかは、一昨年の引越の際に『とどのつまり』を含む押井守関係の本がまとめて押し入れのいちばん奥にしまわれてしまったために、いま確かめることができない。
 ともかくそれは革命論のようなものだったと思う。
 人民とか階級とかいうものを代表して、革命家は革命を起こそうとする。だが、一人ひとりの人間には「人民」らしくない部分や「階級」のあり方からはみ出す部分が必ずある。一人ひとりの性格も違うし、いまいる境遇も違う、いま抱いている願望もさまざまだ。経済構造のせいで貧しくて困っている人たちが「じゃあ革命を起こそう」と考えるかというと、たいていはそんなことは考えない。実際に貧しい人たちや困っている人たちが「革命」に加わるのは、その「革命」運動がわりと大きくなって、その結果、世のなかが変わるかも知れないという期待が生まれてからだ。そうなると、「革命」運動は「暴走的成長」を起こす。けれども、そうなる前は、「革命」運動は、一部の、どちらかというと生活に余裕のある人たちの孤立した運動であることが多い。
 革命家は、そのばらばらの個人の集合体を「革命主体としての人民」とか「階級」とかと構想する。それができるのは、革命家の名声欲とか、外部からの唆しとか、革命家がやけっぱちになっているとかいうことを別にすれば――それもだいじな要素だが――ばらばらの個人についての情報が集められるなかでその具体的な情報の大部分が「劣化」し、その性格や境遇や願望の違いが見えなくなるからではないのか。だから人びとの実際のあり方から「人民の利益」や「階級意識」などだけが残ってしまう。というより、雑然と積み上がって何が何かわからなくなった「無数の人びと」についての情報のなかから革命家が勝手に読み取ってしまうのが「人民」や「階級」という「革命主体」のあり方なのではないか。実際にそこにいる人たちについての情報が劣化しなければ、「人民」や「階級」というまとまりなど構想のしようもなく、革命家は「革命主体」など思い描くことは絶対にできないのではないか。『とどのつまり』の議論は必ずしもそういう議論ではなかったかも知れないが、私がここで考えたのはそういうことだった。

 後のほうで、安彦良和さんと更科修一郎さんの対談で、『イノセンス』が「社会や民衆が描かれていない」と非難されていることについて、私は、なぜそんなナイーブな発言が出てくるのかよくわからないと書いた。
 本文にも書いているとおり、安彦さんがこう発言するのは、自分の作品では社会も民衆も描いているという自負があるからだろうと思う。私は安彦さんの作品をそんなにたくさん観たり読んだりしていないし、系統的に見たこともないのでよくわからないのだが、それでも、一人ひとりの人間と「社会」(人間が関係し合いながら生きる場)との関係を意識して安彦さんが作品を描いている、描こうとしているということは理解できる。
 自分はそういうことを意識しながらやっているのに、押井守がそれをまったく考慮せずにキャラクターや作品世界を構成しているのが許せない――安彦さんの言いたいのはそういうことだろう。そのことにはまったく異論はない。
 それでも、安彦さんの押井さんへの発言という限定をはずしてみたときに、「社会」とか「民衆」とかいうことばを持ち出し、それを「描いていない」と非難すること――それが非難になると考えることに、私はやっぱりどうしてもサヨク的なものに感じる違和感を感じてしまう。「人民」にしても「階級」にしても、また「社会」にしても「民衆」にしても、「だれがどう見ても実在するもの」ではなくて、論じる者が自分の目的に合わせて実際に生きている人びとを素材にして構成してしまうものだ。ともかくそう自覚はしておいたほうがよいと私は考えている。