猫も歩けば...

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東浩紀さんが『イノセンス』が嫌いな理由

 さて、先日、ようやく、東浩紀さん(id:hazuma)の『コンテンツの思想』(青土社asin:4791763254)を読みました。
 前に『ユリイカ』に寄稿された論文を読んだときには、東さんがどうして『イノセンス』が嫌いなのかという理由がもうひとつよくわからず、どうしてこう情緒的で、「ビューティフル・ドリーマーのころはよかった」という感傷的な文章をお書きになるのだろうと思っていたのですが。
 『コンテンツの思想』に収録された神山健治さんとの対談で、その理由がわりと詳しくわかったように思います。
 対談はおもしろいし読みやすいのですが、私自身がまだ十分に整理がついていないので、もしかすると誤解があるかも知れませんが。
 東さんが『攻殻機動隊』以後の押井守作品に違和感を持つようになったのは、押井作品に思想性よりもビジュアリスト的なものを強く感じるようになったから――と理解していいように思います。それに神山さんもかなりの部分共感しているようです。東さんの話の内容でなるほどと思ったのは、昔の押井作品は、盛り上がって一気に怒涛の展開になだれ込みそうなところで哲学的にどうのこうのというセリフが入ってその盛り上がり感が遮断されてしまう感覚がよかったということでした。ほんとうにそうかどうかというのはべつにして、押井作品のある「雰囲気」、または、押井作品好きの人のある「雰囲気」をよくことばで説明したセリフだと思いました。
 『攻殻機動隊』以後も「哲学的」なセリフが減ったとは私はとくに感じてないですけど、言われてみれば「「哲学的」な長ゼリフ」は減ったかな〜という感じはします。
 ただ、押井さん自身は、たぶん1980年代にも多分に「ビジュアリスト」ではあって、とくに『ビューティフル・ドリーマー』以後の劇場作品・オリジナルビデオ作品では、どこかしら「映像的に新しい試み」はしているはずです。『パトレイバー』でも作品ごとにキャラクターデザインの傾向を変えていますし。だから、『攻殻』で断絶がある――という認識には、私は違和感があります。
 また、この「断絶」を考える一つの要素として、実写作品『ケルベロス(Stray Dog)』と『Talking Head』の存在が大きい。とくに『ケルベロス』での台湾の風景との出会いというのは非常に大きいと思います。押井論として論ずるのならば、それに触れないと話が飛んでしまうかな、と思うけど、この対談はべつに押井論そのものではないからいいのかな。
 それにしても、先に出た『ユリイカ安彦良和特集での安彦さんと更科修一郎さんとの対談でもそうだけど、押井さんってともかく「あちこちから気にされる映画監督」になってしまいましたね――っていまごろ何を言ってるのかと言われるかも知れないけど。
 と、ここまで書いたところで時間が来てしまいました。つづきは、また――っていつになるんだろう?