猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

ダークマターの日

 ハロウィンだったり、「制服コミュニケーション3」が開催されたりした今日ですが。
 「制服コミュニケーション」の参加記は別に書きたいと思います。
 それで。
 行ってきましたよ、投票。
 いつもの投票所に来ている人がいつもの選挙より多かったという感じでした。もっとも、行った時間がいつもより遅いということもあるかも知れませんが。
 でも、選挙への関心はこれまでと比べて高かった、と言っていいんじゃないかな、という感触でした。

 さて、それとともに、今日は「ダークマターの日」なのだそうです。
 https://www.kek.jp/ja/special/dark-matter-day/
 なぜ今日なのかはよくわかりませんが。
 Trick or Treat.
 「ダークマターをくれないといたずらするぞ」
 ダークマターは、人間の手で集めて差し出すことはできないので、いたずらされるのは不可避と思われます。
 「お菓子をくれないとダークマターをまき散らしていたずらするぞ」
 同じく、ダークマターは人間の手で集めることはできないので、まき散らすことはできません。また、ダークマターは人間にはほとんどまったく影響がないので、あんまり「いたずら」にはならないと思われます。

 ダークマターは「幽」な物質、というのがいいのかな、と思います。
 日本語では、「暗黒物質」よりも「幽物質」のほうがいいと思う。
 「幽」とは、「幽霊」もそうですし、「幽玄の美」とかいうばあいも、「かすかな」という意味です。
 「かすか」な物質、あまりに「かすか」すぎてどうやっても感知することのできない物質、でもたしかにそこに存在する物質、それが「幽物質」であり、ダークマターだということです。

 江戸末期の国学者平田篤胤は「幽」な世界の存在をいろいろと考察しました。
 平田篤胤は「幽」な世界を、大略、次のように説明しています(記憶に頼って書いているので細かいところは違うかもしれません)。
 「家のなかで、暗い部屋からは明るい部屋の様子がよく見える。しかし、明るい部屋からは、暗い部屋はただ暗く見えるだけで、そこの様子はよくわからない」
 明るい部屋で大人たちが宴会をやって大はしゃぎしている。子どもが暗い部屋に一人残されている。大人からは、暗い部屋で子どもが何をやっているかわからない。しかし、暗い部屋の子どもからは、明るい部屋で大騒ぎしている大人のだれが何をやっているか、ぜんぶ見えている。
 そういうたとえです。
 その「暗い部屋」にあたるのが「幽」な世界、幽界だということです。
 それは私たちの世界から遠いところではなく、まさに「明るい部屋」にあたる私たちの世界に接するように存在しているという。
 そのたとえで言えば、現代の物理学・天文学などでいう「ダークマター」は、極めつきの「幽」な物質なのです。

 私たちは「明るい世界」に住んでいます。「光」でものを見て判断することのできる世界です。
 この「光」には紫外線や赤外線、エックス線や電波まで含みます。目で見える光で見えないものでも、紫外線や赤外線やエックス線や電波で見れば見えることがあります。
 ところが、ダークマターは「光」ではほとんど見えない。紫外線や赤外線やエックス線や電波でも見えない。
 しかし、存在していることはたしかなのです。
 しかも、宇宙の遠くに存在しているだけではなくて、私たちの身の回りにも存在している。
 平田篤胤が言った「幽」の世界のように、明るい場所からは見えないけれど、私たちのまわりに、私たちの世界に重なって、たしかに存在しているわけです。

 「幽」な物質といえばニュートリノが思い浮かぶかも知れません。
 ニュートリノも「幽霊物質」と言われます。しかし、ニュートリノは「電気を帯びていない(電荷がゼロの)電子」です(ここでは「電子ニュートリノ」という種類のニュートリノに話を絞ります)。したがって、ニュートリノが電気(電荷)を獲得すれば電子になります(これもややこしい問題がいろいろありますが、今回は省略です)。

 ところで、「光」で見えるのは電気を帯びている(電荷を持っている)物質だけです。
 いやいや。電気を帯びてないものも見えるでしょ? 身の回りで見えているものが電気を帯びていれば、何に触っても感電してしまって、危なくてしかたがない。でも、実際には、身の回りで、普通に光で見て見えているものに触れて感電することはありません。
 だいたい、自分の身体そのものが目に見えるのだから、自分の身体も電気を帯びているはずだけど?
 だから、光で見えているものも、電気は帯びているとは限らないのでは?
 いや。
 それは、物質のなかでプラスの電気(電荷)とマイナスの電気(電荷)が釣り合っているから、全体としては電気を帯びていないように感じる。
 「明るい世界」、つまり「光」で見える世界の物質は、さまざまな種類の原子核を、電子がいくつかの方法で結びつけてできています。原子核はプラスの電気を帯び(プラスの電荷を持ち)、電子はマイナスの電気を帯びて(マイナスの電荷を持って)います。
 身の回りの物質のなかで、原子核のプラスの電気と、電子のマイナスの電気は、原子核を結びつけるために使われていて、物質の外にはほとんど出てきません。
 むしろ、電気が物質のなかでプラスかマイナスに偏っている状態にして、電気が外に出て来る状態を作るためには、発電機や電池を使ってエネルギーを与えなければいけないわけです。
 したがって、身の回りの、目に見えているほとんどの物質に触れても感電しない(もちろん触れると感電する物質もありますよ!)。
 しかし、「光」(紫外線や赤外線やエックス線や電波も含む)は、物質の細かいところまで入り込んで、原子核や電子(主として原子核から遠いところに存在する電子)の持っている電気(電荷)に反応するので、「光」で見える、ということです。

 で、ニュートリノは、「プラスの電気を帯びている部分とマイナスの電気を帯びている部分が釣り合っている」状態ではなく、完全に電気を帯びていない(電荷がゼロ)の物質なので、ニュートリノ自体を「光」で見ることは絶対にできません。
 しかし、ニュートリノは、原子核や電子とは「たいへんまれに、ごくたまに」程度ならば反応を起こします。その反応が起こると電子などの「光」で見える物質を生み出し、さらに「光」で見える現象を起こすので、それを観測することでニュートリノを検出することはできます。
 だから、とてつもなく手間がかかりますけど、ニュートリノを検出することはできます。

 ところが、ダークマターを構成する粒子というのは、それ自体は「光」とは反応しない。さらに、原子核や電子とはまったく反応しないか、とても反応しにくいと想定されます。つまり、「光」で見える現象をまったく起こさないか、とてもとてもとても起こしにくい。
 「光」の世界、明るい世界からは、そこに「幽」なものが存在するのはわかっていても、それが何か、どういう性質のものなのかは、とてもわかりにくい存在なのです。

 まあ、それはそうです。
 ダークマターは、20世紀になるまで「こういうものが存在するのではないか?」という疑いさえ生まれてきませんでした。
 20世紀にも、ダークマターはじつは「光」で見える物質で、それが見えないのは私たちの観測能力が十分でないからではないか、という疑いが消せませんでした。しかし、観測能力も向上して、「「光」で見えるはずなのに観測できない物質」がダークマターの一部分だとしても、とてもその全体であるはずがないとわかってきたわけです。

 では、「光」で見えないのに、どうしてそんなものが存在するとわかったのか。
 それは重力によってです。
 私たちがいる銀河系とか、アンドロメダ銀河とかは、数千億の星やガス・ちり(ダスト。土ぼこりのようなもの)が集まったものです。こういう集まりを「銀河」といいます。
 「銀河」というともともと「私たちの銀河系」のことなので、「私たちの銀河」を指すときには「天の川銀河」と言ったりしますけど。
 その、「天の川銀河」自身も、「天の川銀河」以外の多くの銀河も、観測してみると、「光」で見えている物質の重さ(質量)を推定して合計しても、その銀河自体の重さ(質量)に及ばない、ということがわかってきたからです。

 いや。
 遠くの銀河の重さなんてどうやってわかるの?
 私たちの銀河(天の川銀河)を含めて、渦巻きっぽい形の銀河は回転しています。また、整然と回転していないにしても、一つひとつの星の動きを確かめることができます。その回転とか、「回転」より複雑な動きとかは、その銀河がどれくらいの重力を持っているかで決まります。ものがどのくらいの重力を持つかは、それがどれくらい重い(どれくらいの質量がある)かで決まります。それによって、銀河の重さ(質量)を推定できるのです。

 一方で、星は「光」を出していますし、ガス・ちりも星の光を反射したりして「光」で観測できます。かつては観測は目に見える光(可視光)が中心だったので、目に見える光(可視光)では見えない物質は「「光」で見えるはずだけど、地球からは見えないものではないか?」という疑いがあった。
 ところが、いまではエックス線も電波も紫外線も赤外線も精密に観測できますので、「光」を出す物質はだいたい見ることができる、少なくとも「存在を推定することができる」程度にはなって来ました。
 そうすると、「光」を出す物質がどれくらいあるかが推定できるようになります。
 そうやって計算した「光」に反応する物質の量が、銀河の回転とか星の動きとかから推定した銀河の重さと大きく食い違う。

 その差を埋めるものとして「ダークマター」の存在が確実と見られるようになったというわけです。

 ここまで書いて「ダークマターの日」が終わってしまいそうなので、今回はここまでとします。

「制服コミュニケーション3」に参加します

 10月31日は大きなイベントのある日です。
 もちろん第49回衆議院議員総選挙です。(タイトルと違うじゃん!)

 「あれ? まだ49回め?」と思ったのは私だけ?
 だって、19世紀、20世紀、21世紀と三つの世紀にまたがってやってるんだよ、衆議院の総選挙。
 でも、「常に任期満了総選挙」だったとすると32回ぐらいをやっているはずなので、その5割増しくらいの回数をやっているということは、「衆議院解散」という制度の効果がそれだけあるということですね。

 で。
 10月31日には「制服コミュニケーション3」が開かれます。
 https://cc.uniformkiss.com/index.html
 B09「アトリエそねっと」です。
 こちらも、一年一回のイベントです。衆議院議員総選挙の2.5倍ぐらいの頻度ですが。
 よろしくお願いします。

 これまで書いたもののうち、中学生・高校生の物語をお持ちします。
 ○明珠女学館中学校・高校シリーズ
 『明珠女学館第一高校春物語 1 二月の雪』
 『明珠女学館第一高校春物語 2 友加理のひな祭り』
 『明珠女学館第一中学校春物語』
 『ネコ まこ ロンド』

 ○瑞城女子高校シリーズ
 『千鶴とりゆ先輩』
 『千鶴のいちばん長い日』【新刊】

 ○ノンシリーズ
 『晴れやどり』
 『未融と瑠璃』

 「ノンシリーズ」という表現は、早川書房クリスティー文庫で、アガサ・クリスティーの作品中、ポワロ(クリスティー文庫では「ポアロ」に統一)、トミー&タッペンス、ミス・マープル、パーカー・パイン、ハーレ・クィンなどの「レギュラー名探偵」が登場しない作品を指す表現ですけど(「ノン・シリーズ」)。
 バトル警視とかミセス・オリヴァーとかは(他シリーズを含めて)複数作品に登場しますけどね。

 それはともかく。
 アトリエそねっとの新刊は『千鶴のいちばん長い日』です。
 もう、当日、ねこのしっぽさんから届けていただいたらすぐに余裕で自立する予定ですよ。400ページありますよ(そういう意味でした)。
 『千鶴とりゆ先輩』に出てきたマーチングバンド部員千鶴がさらなる事件に巻きこまれ、一度は引退を決意するものの、仲間たちが千鶴を引き留めるために集まりを開く…というお話です。
 閉鎖空間で密になって長時間飲食するので、いまはできないなぁ、これ……。
 よろしくお願いします。

 ちなみに選挙はイベント終了後に帰宅してから行くことにしています。
 期日前投票もかなり便利にできるようになっていますが、できれば選挙当日に投票したい、という気もちもあって、のことです。

即売会参加予定

 10月より同人誌即売会へのサークル参加を再開しています。
 先週土曜日(16日)には福生の第3回TAMAコミにサークル参加しました。第2回に続く参加です。会場のサークル配置も、雰囲気もゆったりした即売会で、この「ゆったり」感がずっと続いてほしいと願っています。
 このときは、直前があまりにも忙しくて告知ができませんでした。
 さて、次の日曜日(24日)には、ビッグパレットふくしまで開催されるみちのくCOMITIA7に参加します。
 F8「アトリエそねっと」です。
 https://adv-kikaku.com/comitia/
 今回合わせの新刊はありませんが、2020年以来刊行したものをお持ちします。また、TAMAコミの新刊『日本史研究室の午後』(8月に「カクヨム」に掲載したもの)もお持ちします。
 みちのくCOMITIAではこれまでいろいろな出会いがありました。昨年は「委託のみ」になってしまったのが残念でした。今年は直接参加がかないます。感染対策をしっかりして参加します。またいろいろと出会いがあればいいな、と思っています。「カクヨム」に掲載した『荒磯の姫君』(「上」が完結、このあと「中」を掲載します)をはじめて世に出したのがこのイベントの前身となる「創作旅行」でした。
 そして、その次の日曜日31日は「制服コミュニケーション3」に参加します。
 https://cc.uniformkiss.com/index.html
 昨年初めて参加しましたが、楽しいイベントだったのが印象に残っています。こちらはこのイベント合わせの新刊があります。来週になったらまた告知したいと思います。
 どうかよろしくお願いします。

 

即売会参加予定

 10月より同人誌即売会へのサークル参加を再開しています。
 先週土曜日(16日)には福生の第3回TAMAコミにサークル参加しました。第2回に続く参加です。会場のサークル配置も、雰囲気もゆったりした即売会で、この「ゆったり」感がずっと続いてほしいと願っています。
 このときは、直前があまりにも忙しくて告知ができませんでした。
 さて、次の日曜日(24日)には、ビッグパレットふくしまで開催されるみちのくCOMITIA7に参加します。
 F8「アトリエそねっと」です。
 https://adv-kikaku.com/comitia/
 今回合わせの新刊はありませんが、2020年以来刊行したものをお持ちします。また、TAMAコミの新刊『日本史研究室の午後』(8月に「カクヨム」に掲載したもの)もお持ちします。
 みちのくCOMITIAではこれまでいろいろな出会いがありました。昨年は「委託のみ」になってしまったのが残念でした。今年は直接参加がかないます。感染対策をしっかりして参加します。またいろいろと出会いがあればいいな、と思っています。「カクヨム」に掲載した『荒磯の姫君』(「上」が完結、このあと「中」を掲載します)をはじめて世に出したのがこのイベントの前身となる「創作旅行」でした。
 そして、その次の日曜日31日は「制服コミュニケーション3」に参加します。
 https://cc.uniformkiss.com/index.html
 昨年初めて参加しましたが、楽しいイベントだったのが印象に残っています。こちらはこのイベント合わせの新刊があります。来週になったらまた告知したいと思います。
 どうかよろしくお願いします。

 

鈴木由美『中先代の乱』について(8)―光厳上皇像の転換―

 この本の大きな特徴の一つは「意欲的で積極的な光厳上皇」像を打ち出したところでしょう。
 何に意欲的で積極的だったかというと、持明院統の存続と安定について、です。

 従来、光厳上皇というと、落ち着いていて、無欲で、まわりの情勢に振り回されて一生を送った人格者というイメージでした。積極的で、活動的で、どんな逆境も自分の力でひっくり返してみせるという自信家・野心家の後醍醐天皇とは対照的な人物とされてきました。
 21世紀に入って、伝記として飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)と深津睦夫『光厳天皇』(ミネルヴァ日本評伝選)が刊行され、それがどちらも「落ち着いていて、無欲で、人格者(でキャラの強いヒーローたちに振り回されて一生を送った)」という人物像を描いているということがあります。
 実際、最後には、京都の街区からは遠く離れた地に隠棲して禅の修行を積み、「一禅僧として葬ってほしい」と言い残して亡くなったことなど、この世の権力に固執しない枯淡の極致という生きかたで、しずかな強い印象を残します。
 六波羅探題陥落のときには、六波羅探題のメンバーとともに東国へ脱出しようとして逃げられなくなり、いっしょに来た武士たちが集団で自害する現場に居合わせたとか、「観応の擾乱」で足利尊氏南朝に降伏したとき、形勢を逆転されて不利になった南朝側に連れ去られ、南朝の監視下で不自由な生活を送らなければならなかったとか(「地獄を二度も見た」というのはこの二つの体験を指します)。常に巻き込まれてひどい目に遭っている。
 こういうイメージは『太平記』からあります。有名なのは、光厳上皇が法事で遅くなって、夜、牛車(ぎっしゃ)で帰ろうとしていたら、酒に酔っていた足利幕府の大名の土岐頼遠に「なに? 院だと? イヌなら弓で射て落としちまえ!」と絡まれて、悪質なあおり運転で車を破壊されて道に投げ出された、というエピソードでしょう。その結果、頼遠は、足利尊氏や弟の足利直義に顔のきく偉いお坊さんに頼んで許してもらおうと工作したけれど、あまりに悪質で罪は重いということで打ち首になってしまいました。
 『太平記』は、歴史物語であるとともに、いろいろな教訓を盛り込んだ教訓物語という面があります。ここでも、とても時代を先取りして、飲酒運転やあおり運転をやってはいけない、という教訓を盛り込んでいるんですね! (たぶん違う)。
 政治権力を手放してからは、お寺に参詣に行き、一般人扱いされて苦労しながら、吉野の山奥(賀名生。五条から十津川沿いに新宮に行く途中)の南朝の宮廷に到達して、南朝側の後村上天皇と対面した、というエピソードも『太平記』にあります。事実とは考えられない、ということですが、「太平」の時代を先取りしようとする『太平記』大詰めの印象深い場面です。
 あと、やはり無欲で人格者の花園天皇に養育され、「太子をいましめる書」というのを与えられ、人格者教育を受けていた、というエピソードもあります。花園天皇にこういう人格教育を受けている以上、やっぱり無欲でまじめで人格者に違いない、と。

 ただ、そういう「無欲な人格者」のイメージにそぐわないエピソードも、以前から知られていました。
 その一つは、息子の崇光天皇天皇にした後(光厳上皇の弟であった光明天皇から譲位)、「じつは花園天皇の皇子ということになっている直仁親王は私の子なので、天皇の位はこの直仁親王とその子孫に継がせ、崇光天皇の子孫は直仁親王の子孫に仕えるように」と言い出したことです。
 「この子はこれまで叔父さんの息子ということになっていたけど、じつは私の子なので」というのは、けっこうびっくりします。「人格者」のイメージには非常にそぐわない。
 しかも、これまで自分の子として育ってきた兄の天皇に、「あとで譲位して、天皇の位を自分の子孫に伝えるのはあきらめてね」と言うっていうのは……どうなの?

 「ある皇子を即位させ、その後、弟を即位させる」ということ自体が、だいたいトラブルのもとでした。
 平安時代には、村上天皇の次の世代に、冷泉天皇に続いて弟の円融天皇皇位に就けたら、皇統が冷泉天皇系と円融天皇系に分裂した。このときは、藤原道長という、とても意欲も能力もあるひとが出て、両方の皇統と関係(娘を天皇に嫁がせる)を作って円融天皇系優位でまとめます。ところが、道長の子の藤原頼通は、娘を天皇に嫁がせたものの天皇になるべき男の孫が生まれず、円融天皇系の天皇後朱雀天皇と、冷泉天皇系の皇女(禎子内親王、陽明門院)とのあいだに生まれた後三条天皇皇位を嗣ぎ、この対立はいちおう解決しました。
 そのあと、鳥羽上皇が、子の崇徳天皇から弟の近衛天皇に譲位させ、これがおおもとの原因となって保元の乱が起こった。このときは、近衛天皇上皇にならないまま亡くなってしまい、いろいろややこしいことになりつつ、最終的に平清盛が登場して平清盛が支持する高倉天皇の系統で決着します。
 後嵯峨上皇も、先に皇位に就けていたお兄さんに「譲位しなさい」と言って弟を皇位に就けたために、この兄弟がそれぞれ持明院統大覚寺統の祖になって、「皇統分裂」という事態になりました。
 同じような危機はじつはその後の大覚寺統にもありました。大覚寺統後宇多上皇亀山天皇(亀山法皇)の子で、自分の子の後二条天皇を即位させ、さらにその次の大覚寺統側の皇位継承者に後二条天皇の子の邦良親王を立てようとしていました。これが大覚寺統の本流です。
 ところが、後宇多上皇のお父様の亀山法皇が、自分の末の子の恒明親王天皇にすると言い出したのです。もしこれが実現すれば、亀山法皇後宇多天皇後二条天皇邦良親王という「本流」は本流から外され、亀山法皇恒明親王という「新たな本流」が生まれるはずでした(しかも邦良親王からは一挙に祖父の世代まで戻ることになります)。
 ところが、そのあと亀山法皇が亡くなり、後宇多上皇大覚寺統の最長老になったため、恒明親王大覚寺統の「新たな本流」になることはできませんでした。
 しかし、この「恒明親王を後継者に」運動のために用意された資産(主として荘園群)は、後宇多上皇が予定した大覚寺統本流(後二条天皇邦良親王)ではなく、後二条天皇の弟の後醍醐天皇と、その子の世良親王を「大覚寺統の新たな本流」にするための運動に受け継がれます。亀山法皇が自分の末の子を天皇家の本流にしようとしたことが、後醍醐天皇がその子孫を天皇にするという動きの間接的な出発点になっているのです。後醍醐天皇の子孫が天皇になるというのが南朝ですから、つまり南朝の出発点はそこにあったわけです。
 なお、世良親王は1330(元徳2)年に亡くなり、皇太子になることはできませんでした。しかし、この、世良親王天皇の位を嗣がせようという運動の中心に貴族の北畠親房がいて、後醍醐天皇の没後、北畠親房が強硬派の一員として南朝を支えることになります(以上は岡野友彦『北畠親房ミネルヴァ日本評伝選によります)。

 こういう混乱を見ているのに、なお「直仁親王は私の子なので、お兄さん(崇光天皇)は位を譲り、以後、直仁親王の子孫を天皇にするように」というのが、「無欲な人格者」なの……?
 それに、自分を養育してくれた叔父さんの花園上皇に「こんど、男の子産まれたんですけどね。うちの子として育てると差し障りがあるから、叔父さんの子として育ててくれません?」というのは……。
 なお「直仁親王はじつは私の子なので」という点は、他の人に見せるはずのない文書にもそう書いてあるので、確実だと思われています。

 この点は、これまでもやっぱり違和感が感じられていたようで。
 もともと自分を育ててくれた花園天皇への光厳天皇の恩返しではないかという説がありました。花園天皇は、後伏見上皇の子である光厳天皇量仁親王)が成年に達するまでの「中継ぎ」で、子孫に皇位を伝えられないことが最初から決まっていました。しかし、花園天皇は、光厳天皇にとっては育ての親です(実の親=後伏見上皇も健在なんだけど)。そこで、その恩に報じるために、自分の子を花園天皇の子として扱い、その子孫に天皇位を伝えることで、ともかくも花園天皇の子孫に天皇の位が伝わった、というかたちを作ろうとした、という説です。
 最近では、崇光天皇よりも直仁親王のほうが血縁が足利氏に近いので、直仁親王の系統に皇位を伝えることで足利氏の支持を取りつけようとしたのではないか、という説も提唱されています。
 また、直仁親王の誕生は1335(建武2)年で、中先代の乱のころに懐妊がわかっているので、生まれたのはたぶん足利尊氏が九州へと転戦して京都からいちばん離れていた時期でした。つまり、京都では後醍醐天皇の勢いが強い時期です。
 この時期に、直仁親王光厳上皇の子として育てると、兄の(後の)崇光天皇とともに出家させられてしまうなど皇位を継ぐ可能性を消されてしまうことを危惧した可能性もあります(「退位してから出家」ならば院政を行えるが、先に出家してしまうと原則として天皇になれなくなる)。そこで、「保険」として直仁親王花園上皇の子にしたのではないかとも思います。花園上皇の子は皇位を継がないことになっているので、後醍醐天皇からのチェックも甘く、そのほうが安全、ということです。
 ただ、これは私の推測で、まったく根拠はありません。

 また、持明院統天皇はみんな無欲な人格者かというと、そうでもなく。
 光厳天皇の祖父にあたる伏見上皇は幕府に警戒されるくらいに自己主張の強い天皇上皇)でした。子孫のほうも、光厳天皇の子にあたる後光厳天皇とその子孫の後円融天皇後小松天皇と、それぞれかなり自己主張の強い天皇(というか、それぞれ権力を握ったのは院政をしている時期なので、自己主張の強い上皇)でした。
 そういう点を考えると、著者の「積極的で意欲的、ときには陰謀家の光厳天皇」というイメージは、そんなに不自然なものではありません。

 しかし。
 光厳上皇のコーディネートによって、西園寺公宗建武政権打倒のクーデターを起こし、それに連動して北条時行が鎌倉を占領、北陸地方名越時兼が統一して北陸の兵を率いて京都へと進撃、もしかすると東北南部でも結城盛広が建武政権側の陸奥将軍府北畠顕家。親房の子)を制圧……みたいな計画があったとする。
 それで、後醍醐天皇を廃位して光厳院政の実現を考えていたとする。
 光厳院政が実現したのが後の北朝なんですよね?
 で、北条時行は、中先代の乱敗北後、後醍醐天皇側・南朝側に立って戦い続けました。

 ……なんか一貫してなくないですか?

 一貫してなくていいんですよ!
 乱世なんだから。
 ほんと、乱世でなくても一貫してない人はいっぱい……いやなんでもないです!

 でも、北条時行さん、一貫はしているのです。
 「反建武」。
 むしろ、光厳上皇が、この失敗の後に「建武政権足利尊氏派」と手を結んで、時行の「反建武政権」の立場と袂を分かった。光厳上皇が立場を変えたのです。

 光厳上皇が、京都を脱出して西へと向かう足利尊氏の立場を上皇として承認し、尊氏を「反乱軍」の立場から救ったわけですが。
 そのとき、光厳上皇は、もう「正慶五年」とは言っていません。「建武」を受け入れたのです。その後、北朝院政を始めたときも「建武」のまま改元していません。
 つまり、光厳上皇建武政権を一部分認めたわけです。

 建武政権とは、後醍醐天皇+足利氏の連合政権だった。
 それが「建武政権後醍醐天皇派」と「建武政権足利尊氏派」に分裂した。
 私たちは、「足利尊氏建武政権から離脱し、建武政権に敵対した」と考えますよね?
 でも、「足利尊氏建武政権だ」、「足利尊氏こそ建武政権だ」という感覚もあった、と考えてみます((5)で論じたとおり)。
 光厳上皇は、反後醍醐天皇だったので、「後醍醐天皇派+足利尊氏派」の建武政権は否定しなければならない。だから「正慶」の元号にこだわった。
 しかし「建武政権足利尊氏派」と連合して「建武政権後醍醐天皇派」と戦うのであれば、「建武」を否定する必要はなくなる。
 北条時行が「建武」を認めないのであれば、当然、光厳上皇とも立場が違ってくる。
 時行が南朝側という立場になってからは、光厳上皇とは敵どうしになる。
 そういうことではないかと思います。

鈴木由美『中先代の乱』について(7)

 前回から間があいてしまいました。

 西園寺公宗陰謀事件と中先代の乱で、公宗と時行は連携していたのか?
 著者が示す連携説の根拠の第一の根拠は、中先代の乱をうけて公宗が(事実上)処刑されていることでした。これについては、私は、前回書いたように、「建武政権がその可能性を危惧した」ということは言えても、連携したとは必ずしも言えないのでは、と考えています。
 では、第二の根拠はというと、時行が「建武」の元号を使用せず、「正慶」という元号を使用していること、そして第三の根拠はほかの北条一族の反乱も同時期に起こっていることです。

 元号の問題はややこしいので後回しにして、ほかの北条一族の反乱について。
 前に書いたように、この建武政権期には15回の北条与党の反乱が起こり、それと関連するかも知れないものを含めると20回以上、平均してひと月に一回は反乱が起こっているわけですから、まあ、「西園寺公宗陰謀事件・中先代の乱と同時に反乱が起こっている」といっても「通常どおり」みたいなところはありますが。だから、何の連絡もなかったけど、「頻繁に起こっている反乱がたまたまその時期にぶつかった」という可能性はあります。
 著者が挙げているのは、中先代の乱とほぼ同時か、少し遅れて起こっている、北陸での名越時兼の反乱です。北条氏の名族名越氏の時兼が、加賀・越中能登(現在の石川県・富山県)の軍勢を率いて京都に向かおうとして敗死したという事件です。ほかに、京都で起こった北条高安という人物の決起未遂事件も関係があったと見ています。また、奥州の結城盛広の反乱は中先代の乱が波及したものですが、これももともと何かの連絡があったのかも知れません(著者はそこまでは言っていません)。

 それをつなぎ合わせてみると。
 越後、奥州(現在の奥州市ではない)、信濃、京都で反建武政権一斉決起を起こし、一挙に建武政権を転覆しようという全国規模(少なくとも京都以東で足並みを揃えた)の軍事クーデター・軍事反乱計画が存在したのではないか、ということになります。
 西園寺公宗の陰謀というのはその中核部分で、それと連動して、信濃と越後で反乱を起こし、京都と鎌倉を同時に制圧する。そういう壮大な計画があったのではないか。

 でも、そういう壮大な計画はなかなか成功しないもので。
 後の「正平の一統」の際に、南朝が勢いに乗って足利方(尊氏と義詮)を京都と鎌倉から追い出そうとしたときも、両方で失敗しています。

 もし「一斉決起」計画があったとすると。
 この時代に、どうしてこういう壮大な計画が行われたかというと、それは、鎌倉と京都の同時攻勢による、鎌倉幕府六波羅探題の同時討滅という事件を見てしまったことの影響が大きいんじゃないかと思います(これについては、岡野友彦『北畠親房』(ミネルヴァ日本評伝選)での、正平の一統についての叙述を参考にしました)。
 このときも、足利‐新田一族でその壮挙が可能だったのだから、それを上回る名族の北条氏が出て行けば、ということを考えたのかも知れません。
 もちろん、それぞれが別々に反乱のプランを立てていたら、たまたま連動してしまった、という可能性もやっぱりあるので、史料的な制約を考えると、なんともいえないところです。

 そこで、元号の件なんですけど。
 公宗のバックには、建武政権からの復権を狙う光厳上皇がいた。そして、光厳上皇が、まだ少年の時行に「時行」の名を授けて元服させ(成人儀礼を行わせ)、北条家本家の当主であることを保証した。
 西園寺公宗と後伏見法皇光厳上皇のつながりがあったのは確実です。それに歩調を合わせるように、時行も、「正慶」という元号を使用している。
 元号というのは「天皇が時間を支配している」ということを具体化した制度です。
 だから、後醍醐天皇持明院統で、「だれが正しく在位している天皇か」で対立している状況では、両方で使う元号、使いたい元号は違うわけです。

 1330年頃から建武政権崩壊までのあいだ:
 後醍醐天皇が定めた元号:元弘、建武、延元
 光厳天皇が定めた元号:正慶
です。「建武」は、後醍醐天皇が一方的に定めた元号なので、光厳天皇としてはできれば使いたくない。
 一方で、後醍醐天皇は、光厳天皇の在位を認めていないので、「正慶」元号は存在しないことにしており、自分が定めた「元弘」から、自分が改元した「建武」へと続くという認識です。

 そして、北条時行は、中先代の乱当時、建武政権の「建武」はなかったことにして、「正慶」の元号を使っています。
 つまり、「持明院統天皇光厳上皇)が本来あるべきだと思っている元号」を使っているのです。
 西園寺公宗持明院統と提携していたのは確実です。そして時行も正慶の元号を使用しているということは、持明院統との強固な連携があった。

 そうである以上:
 「持明院統の代表者=光厳上皇が、西園寺公宗北条時行(と名越時兼と結城盛広?)を組織して、一挙に反建武政権軍事クーデターを企てていた」
という推定が成り立つ。
 それがこの本の主張です。そして、公宗が(事実上)処刑されたことと、同時に他の北条与党の反乱が起こったことに加えて、この根拠もあるならば、この「全国的陰謀」説も認めていいのではないかと思いますが。
 でも、いろいろとびっくりするような話です。

鈴木由美『中先代の乱』について(6)

 ところで、この本では、中先代の乱は、その直前に起こった西園寺公宗(きんむね)陰謀事件との連携があった、としています。

 西園寺家というと、ひとによって非常にイメージの違う一族で:
 (1)中世史を学んでいる人、中世史ファンにとっては、西園寺家というと、鎌倉時代関東申次(もうしつぎ)という役職を務め、院・朝廷と幕府との連絡役となり、鎌倉時代天皇の皇后を輩出してたいへん権勢を振るった一族です。
 つまり、院・朝廷の超エリートで、親幕府政策・親北条氏政策をリードした名門ということになります。藤原氏の一族で、摂家に次ぐ「清華(せいが)」という家格をもっていました。

 (2)近代史の人にとっては、政友会総裁で、二度首相を務め、長州・陸軍閥桂太郎とともに「桂園時代」を実現し、後に「最後の元老」となった西園寺公望(きんもち)です。鎌倉時代の名門西園寺家のはるかな子孫です。この公宗の時代からずっと「公(きん)○」という名を受け継いでいるのですね。政党の総裁から首相、元老ですから、たいへん権勢を振るった人ですが、同時に戦前日本の「憲政」を支えた人でもあります。

 (3)そして、『究極超人あ~る』のファンにとっては、もちろん西園寺まりい・えりか姉妹。
 春風高校でたいへん権勢を振るった一家です。
 それは、こういう家柄ですから。
 えりかちゃんは般若心経が暗唱できて当然なのです(このネタいま何人に通じるだろう?)。

 で、ここは中世史の話なので、(1)です。
 それで、鎌倉時代中ごろからの天皇家は、持明院統大覚寺統に分かれていました。
 後嵯峨天皇の皇子のうち二人が皇位につき、そのうち兄の後深草天皇の子孫が持明院統、弟の亀山天皇の子孫が大覚寺統です。
 一般的に、持明院統が親幕府・親北条氏、大覚寺統が比較的反幕府傾向が強いと言われます。
 北朝の系統の光厳上皇光明天皇持明院統です。
 で、後醍醐天皇はいちおう大覚寺統なのですが、じつは大覚寺統本流ではありません。
 大覚寺統本流は後醍醐天皇の兄の後二条天皇なのですが、わりと若くして亡くなり、その子の邦良親王も若くして亡くなっているので、この時代、大覚寺統本流は無力な存在になっていました。ちなみに、南北朝対立が始まると、大覚寺統本流は京都に残ります。したがって、北朝側が「両統迭立」を続ける気ならば北朝皇位大覚寺統本流に回ってもよかったのですが、現実にはそうはなりませんでした。

 後醍醐天皇は、持明院統とも、大覚寺統本流とも違う、後醍醐天皇独自の「皇統」をうち立てようとしたのです。

 で、西園寺公宗は、持明院統上皇を奉じてクーデターを企てたとして、建武2(1335)年6月(旧暦)、建武政権側の楠木正成高師直に逮捕されました。

 最初にこの二人の組み合わせを知ったとき、私は「なにこの組み合わせ?」と思いましたよ。
 楠木正成といえば後醍醐天皇の忠臣として知られています。
 それに対する高師直は、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏の「執事」で、後に尊氏の下で権勢を振るって「観応の擾乱」を引き起こす人物です。
 『仮名手本忠臣蔵』では、同時代の政治批判になるのを避けて、史実の吉良上野介(義央)に当たる役がこの高師直になっています。悪役の印象がとても強い(なお、高師直については、『観応の擾乱』の亀田俊和さんによる伝記があります)。
 でも、当時は、足利尊氏高師直建武政権に仕えて積極的に活動していたわけですから、この組み合わせは自然です。

 この西園寺公宗陰謀事件とほぼ同時に北条時行決起事件、つまり中先代の乱が起こっているので、この両者には連携があったかどうかが問題になります。
 著者の鈴木由美さんは連携があったとする説です。

 その根拠の一つは、時行の決起を受けて、本来は身分制度的に死刑にできない西園寺公宗が政権側によって殺害されていることです。
 ただ、この建武政権による事実上の処刑は、時行が鎌倉を占領し、関東・信濃から駿河遠江あたりまで勢力を拡大した時点(8月2日)でのことで、時行の勢力が最も大きかった時点のことです。「時行に味方する者に公宗の身柄が奪還される→京都でも公宗を担いだクーデターが勃発して時行と連携する」という流れを政権側が警戒したということまでは言えるでしょう。しかし、そういう情勢下ですから、ほんとうに公宗が事前に時行と連携していたかどうかがかえってわかりません。危機感を持った政権側の「警戒のしすぎ」の可能性もあるからです。
 また、著者も触れているとおり、この「処刑」は、足利尊氏三河へ出発する日に行われています。尊氏の出発が、尊氏の独断専行ではなく、建武政権内のある程度の合意のもとで行われたとすれば、足利軍が不在で京都の警備が手薄になる前に、不安な要素である公宗を排除しておこうということだった可能性もあります。
 これは、前に書いた、尊氏による時行討伐の遠征自体を後醍醐天皇が認めていなかったのか、それとも後醍醐天皇が認めなかったのは征夷大将軍の称号だけで、遠征自体は認めていたのか、という点に関係しますが。
 いずれにしても、この点では、「建武政権が公宗と時行の連携を恐れた」ということは言えても、ほんとうに連携していたかどうかは不明、ということになるのでは、と思います。

 そこで、この問題の検討は、この次に続きます。