猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

自由を論じることの難しさ

 というわけで、今回のホームページ更新では、「自由を論じるための準備作業」という文章を載せた。これを書くのにすごい苦労した。だから、このテーマについていまは考えたくないという気分もないことはないのだけど、でも、考えていることを書いてみようかという気もある。
 ので、何か書いてみる。
 今回、これを書いていて自分で感じたのは、「自由」の論じかたがすごく難しくなってるな〜という、まああたりまえのことだった。
 一方には、ひどく単純に自由と民主主義を世界に広めると言いふらしている世界一の超大国の政府がある。ブッシュ政権は、あるいはこういう表現の戦略的性格に自分で気づいているかも知れない……し、自分で自分の掲げた看板のトゥルービリーヴァーになって自分で酔いしれているかも知れない。まあそんなことはどうでもいい。すくなくともその看板を看板どおりに信じている人は、アメリカにもその他の国にもそれなりの数はいるに違いない。他方で、「自由」と言っても具体的に何をどうする(どうできる)のが自由なのかがわかりにくくなっているという社会の現実がある。言論とか情報取得とかの自由を考えたばあいに、それを無限定に認めると権利侵害を野放しにすることにつながるし、かといってそれに制限をかけると言論・報道・出版その他の自由に不当な規制を加えることに道を開いてしまいかねない。近代で古典的とされていた自由の議論のしかたでは追いつかなくなっているのが現実ではあるまいか。そういうことは、まあなんか感じてはいたけれど、実際に議論を進めてみるとやっぱり難しいということを実感した。
 これを書いたことで、いったんは難しくて投げ出したノージック井上達夫の議論を読んで、少しは理解できるようになったかな? でも、まあ、もうちょっとこのテーマにはこだわってみるつもりだ。