猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

井上達夫『他者への自由』創文社(isbn:442373091x)

 ノージックに続けて読みはじめたときにはノージックより読みやすいと思っていたけれど、後ろのほうまで読むとあんがい難しかった。チェコスロバキア(まだ一つの国だったころ)の大統領のハヴェルの演説の話とか、マルクスレーニン主義アナーキズムの批判のあたりまではわかりやすかったんだけど、コミュニタリアニズム(この本では「共同体論」)の話のあたりからどんどん難しくなってきて、最後のほうはあんまり理解していない。
 読んで思ったのは、井上先生という方はまじめな方なんだろうなということだった。井上さんは、共同体論のリベラリズム(井上さんは「自由主義」という訳は誤りだという)批判を受けて、個人個人の「善」の探究を認め、それを勇気づけるものとしてリベラリズムは大いに存在意義があるという議論を展開しておられる(のだと思う)。
 このコミュニタリアニズム批判は重要な点を衝いていると思った。コミュニタリアニズムは共同体の伝統に根ざした「善」を目指し、政治はこの共同体的「善」に沿って、ばあいによってはそれを共同体のメンバーに押しつけるかたちで行われるが、それは個々人の「善」の探究をかえって阻害するというのだ。たとえ同じ共同体に属し、同じ「伝統」を引き継いでいても、その「伝統」の解釈は個人によって異なるはずであり、コミュニタリアニズムの考えるような政治は、そのうちの一つの解釈に基づき他の解釈を抑圧してしまうのだという。井上さんのまとめによると、コミュニタリアニズムの想定する人間は、自分の属する共同体の伝統を物語的に解釈して、それを自分の生きかたの指針にするような人間だ。とてもまじめな人間像である。そして、そのコミュニタリアニズムの想定するまじめな人間のまじめさを十分に発揮させるためにこそ、コミュニタリアニズムではなくリベラリズムが必要だというのだ。
 前にも書いたように、コミュニタリアニズムというのは頽落しやすい考えかただと思う。社会のなかで強い力を持っている人たち(その「力」には、暴力、軍事力などから、知的なステイタスや仲間の多さなどまで含む)が、自分の決定を共同体の伝統に基づいていると一方的に主張してそれを押しつけようとしたときに、コミュニタリアニズムではそれに抵抗することが難しい。いちおうは力を持っている相手ともねばり強く対話していけばいいんだろうけど、現実問題としてはそれで大きな成果を上げるのはすごく難しい気がする。しかも、そうやって決定を押しつけている「力のある人たち」は、自分の権威で押しつけているのではなく、それが「共同体の伝統や共同体での討議を経て決めたこと」だということにして責任の回避を図ることがある。「無責任の体系」みたいなのを作ってしまいがちだと私は感じている。
 それを回避するためには、やはり「正義の基底性」からまず出発するという井上さんの方法論が必要だろう。
 ただ、コミュニタリアニズムへの応答として、コミュニタリアニズムリベラリズムの人間観として「根無し草的な人間」(「負荷なき自我」)を想定するのは誤りで、本来のリベラリズムは「自分のいる場所や果たすべき役柄を心得ている人間」(「位置ある自我」)を想定するのだと主張している点には違和感を感じないでもない。
 その人間観の結果として、井上さんのリベラリズムでは、それぞれの人間が「善」を目指すのを「趣味の問題」として放置するのはよくなく、その「善」の探究を勇気づけるべきだということになる。でも、人間の「善」の探究を勇気づけることが、コミュニタリアンな要素を含まない「正義の基底性」というので可能なのかな?――という疑問がある。井上さんは本の後半でこういう批判に回答しているのだと思うのだけど……残念ながら私の理解が追いつかなかった……。
 けっきょく、人びとが「これがいい」と思うものを持ち寄って話し合うための土台までは作りましょうということなんだと思うのだけど。
 それはいいと思うのだけど、「善」の探究を趣味の問題として放置して、人びとが思いついたときに勝手に「善」について話し合うのを阻害しないようにするというだけではだめなのかな?
 このへんの問題意識がわからないのは、一つは私がノージックの自由論の前半しか読んでいなくて、ロールズとかドゥオーキンとかを読んでないからだろうなという気はする。読んでみようとは思うんだけどねぇ……。
 あと、ノージックの本とこの井上さんの本とを読んでみて(外国人だけ敬称抜きというのもなんかヘンかも。でも「ノージックさん」と書くのもなぁ……)、いま興味を引かれているのがアナーキズムで。ノージックも、ここまで読んだ感じでは、アメリカ合衆国の大企業とかの利益を擁護するために最小国家を主張したというよりは(もしかするとそうなのかも知れないけど)、少なくとも『アナーキー・国家・ユートピア』の前半では、アナーキズムに対して「いかに国家を正当化するか」という関心が主になっているように感じるのだ。
 このへんは引きつづき考えてみたい。