猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

自分の「自由」論の到達点確認

 WWFさんの新刊の編集がこの週末で行われた。私は、当初は、ホッブズの『リヴァイアサン』とロックの『市民政府論』(『政府二論』後編)を読んで、社会契約論について書くという硬いめの文章を寄稿しようと思っていたのだけど、ぜんぜん作業が進まなくて書けなかった。で、かわりに、これまで私のホームページに書いた「自由」についての議論をもとにした論考を寄稿した。内容的には目新しいことも言っていないし、お恥ずかしいかぎり的な文章なのだけれど、以前に書いた内容をもういちどいまのことばで語り直したので、自分自身にとっては自分の議論の到達点の確認になったとは思っている。
 私は、人間はなぜ自由になりたいかということから考えたいということと、世のなかで同じように「自由」と呼ばれているものの実質は一つではないのではないかということから、自由というのを考えてみたいと思ってきた。
 私は、自由を求める気もちというのは、「いまできるのより少しだけたくさんのことができるようになること」を求める欲求みたいなのから発していると思う。だから、「前より自由になること」は「前より自分でやらなければならないことが増えること」と一体で、自由と負担感は一体だ。だから、いきなり自分が予測している以上の自由を与えられたら、負担感のほうが重くなって、「自由からの逃走」が起こったり、自由の使いこなしかたがわからなくなったりするのではないか。でも、今回の文章では、その「過剰な自由」の問題にはほとんど触れられなかった。あと、自由を求める気もちは「苦痛から逃れたい」という欲求からも発しているはずなのだけど、それについてはまったく触れてないな。苦痛から逃れたい気もちと、世のなかに働きかけて自分にとって快適な世のなかにしたいという気もち、世のなかに働きかけられて得られる達成感とか充実感とかというのは、私は一体ではないと思っているのだけど、もちろん関連しているわけで、そのへんをどう議論すればいいのかな。そのへんは私にはよくわからない。功利主義というのをもういちど読み直してみる必要があるのかなと思ったりもする。
 「自由」の実質は一つではないというのは、もっと直観的な話で、いますでにカネ持ちである人が自由に起業していくらでも大もうけする「自由」と、今日の飯にも困っている人が飢えと寒さにさらされずにすむ「自由」とは別物じゃないのか、という発想だ。その二つの自由を分けることができれば、いくら働いてもカネがなくて困っているような層に対してはドゥウォーキン的な平等主義的リベラリズム、どんどん(もちろん正当な方法で)カネを儲けたい人に対してはノージック的なリバタリアニズム、という使い分けができるんじゃないかという気もするのだけど、まあそうかんたんにはいかないよね。
 まあ、今回の執筆では、自分がいかに「自由」を論じるための基礎的なものすら読んでいないか、基礎的なことがわかっていないかがわかったので、これから精進していきたいと思っていますです。