藤原保信『自由主義の再検討』岩波新書(isbn:4004302935)
この本を読んだのは3回めだ。最初は出た直後に読んだ*1。社会の雰囲気も冷戦構造崩壊後の楽観的な時期だったし、私自身もいまよりは若かったので、わりとこの本の理想主義的なところに共鳴した。2回めは最近で、ホームページに自由についての議論を書くまえに読んでみた。このときはなんか電車のなかですごい速く読めたのを覚えている。で、その文章を書き終えたあとにまた読んでみたのだが、こんどは一転してやたら難解に感じた。まあ私自身の体調とかのせいもあるんだろうけど、もしかすると、まえに読んだときにそうとうに飛ばし読みをして、じつはあんまりよくわかってなかったんじゃないかという気もする。
この本を読み直したのは、こないだつらつらと東浩紀さん(id:hazuma)がやっていた『波状言論』(4〜6号、11号、19〜20号)を読み直していると、「リバタリアニズムをメタ規範(規範の上の規範)として、その上にコミュニタリアンな共同体が林立しているのが現在の言論状況だ」というようなことが書いてあって(あんまり正確な要約ではないかも知れない)、それでふとこの本を思い出したからだ。この本は、自由主義の成立過程を古典古代ギリシアから説明し、途中でマルクス主義についても説明をはさんだあとで、ノージックのリバタリアニズムにまで話が及ぶ。そのリバタリアニズムに対する批判として、著者の藤原保信さん自身が賛同しているコミュニタリアニズムの紹介があり、コミュニタリアニズムへの道を示唆して終わる。
藤原保信さんのこの本での見解によれば、コミュニタリアニズムというのは開かれた対話・討論を前提にするから、比較的閉じた空間でのコミュニタリアニズムというのはあまり想定されていないようで、社会全体での規範としてリバタリアニズムを採るか、コミュニタリアニズムを採るかという二者択一になるようだ。だから、そこからは、東さんのモデルのような「リバタリアニズムをメタ規範として、コミュニタリアンな共同体が林立する」という事態にはなりにくいだろう。ただ、いま進行している状況を見ると、どうも東さんの議論のほうが実態に近い気がする。藤原保信さんはコミュニタリアンな共同社会を古典期ギリシアの伝統につながる理想社会として捉えている面があるわけだが、コミュニタリアンな規範というのをあんまり理想的に捉えすぎてもいかんのだろうな、というのが私の現時点での感想である。どちらについてもまだぜんぜん知らないので、これから読んで考えていきたいと思う。
この本でおもしろかったのは、17世紀のロックも19世紀のマルクスも労働価値説なんだけど、ロックの労働価値説が私有財産を積極的に肯定するのに対して、マルクスの労働価値説は私有財産を究極的には否定する方向で働くという整理だった。しかも議論を組み立てる上で参照している対象は主として同じイギリスの社会である。これから新しい産業を開こうとしている人たちの前に未開拓の領域(北アメリカ大陸も含めて)が広がっていた17世紀と、その領域が工場の煤煙で覆われつつある19世紀中ごろの時代の空気の違いみたいなものがこういうところに反映しているのかなという気もする。イギリスの社会史はもちろん、イギリス史自体を私はあまりよく理解していないので、あんまり確かなことは言えないのだけど。
ところで、この本には、ギリシアのポリス(古典期の都市国家)では私有財産が悪と見なされ、ポリス共同体の構成員の平等が図られたというような話が出てくる。でも、ちょっと前に読んだ山川出版社の「世界各国史シリーズ」の『ギリシア史』(桜井万里子 編、isbn:4634414708)によると、古典古代のギリシアのポリス共同体社会でも「平等」はあくまでたてまえで、「帝国主義」的繁栄を誇ったアテナイ(アテネ)はもとより、厳格な規律で市民生活を統制していたスパルタでも財産の不平等が発生していたらしい。やっぱり「たてまえは平等だけど実際は違う」というのがあったんだね、昔から。
この『ギリシア史』によれば、古典古代ギリシアについての史料は圧倒的にアテナイとスパルタ(国号はラケダイモン)に偏っているそうだ。アテナイもスパルタも古典古代ギリシアのなかでも例外的なポリスだった*2。その少数の都市国家について、しかも理想を交えて書かれた古典期ギリシア像には、たとえその現実ではなく理論について議論するにしても、これからはやっぱり「実際はどうだったか」を少しは考えに入れないといけないんだろうな。