猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

モンスター化した竹の脅威

 昨日、寝るのが遅かったうえに、風邪気味なので風邪薬飲んで寝たら、てきめんにふたご姫を寝過ごして、起きたらNHK総合で『地球だい好き環境新時代』をやっていた。竹薮の手入れをだれもしなくなったら、竹が猛威をふるって、石見銀山遺跡を破壊しそうな勢いだったり、茶畑にタケノコが突き出したりと、日本じゅうでたいへんなことになっているという話だった。
 「松竹梅」で、梅よりおめでたい木のはずなのに、人間が手入れを怠ったらなんかすごいモンスターに変貌してしまったみたいである。
 こういうのを見ると、ちゃんとお祀りしないといい神様でもたたり神に変容してしまうという日本古来の信仰(少なくとも古来から日本国であった地域の信仰)の感覚がわかる気がする。
 「日本人は古来から自然をたいせつにしてきた」みたいな表現があるけど、建築史学者・建築家の(自邸「タンポポ・ハウス」をはじめ、ヘンな家をたくさん造っている)藤森照信さんはそうではないと(たしか『タンポポ・ハウスのできるまで』に)書いていた。日本列島の自然環境では、自然はまさに自然のままにしておくと繁茂しまくって手に負えなくなってしまう。それを、草を刈ったり適度に伐採したりしてコントロールすることが必要で、そうやってコントロールしたところにこそ神が降るとされていたというのだ。
 たぶんそうなんだと思う。ユダヤ教キリスト教イスラム教(「イスラーム」)が生まれたパレスチナとかメッカ・メディナとかの「自然の苛酷さ」とは正反対だけど、日本の宗教や宗教観もやはり「自然の苛酷さ」と向き合ってできてきたのだろう。
 で、竹を資源として使う技術は開発されているのだが、国内の竹を使うと高コストになってしまうので、けっきょくいまは「竹のモンスター化」現象の解決には役立っていないらしい。ゲストの内橋克人さんが「市場経済を超えた原理で政策的に誘導を」という話をしていたけど、言うは易くてもけっこうハードルがいくつもあるように感じる。まあこのへんは最近ここで書いてることとも関連しているリバタリアンコミュニタリアン論争とかとも関係することなんだろうけど。
 まあけっきょく地産地消みたいな方向で解決を図るということなのかな? まあまた考えてみたい。
 番組のほうは、以前、『サイエンスアイ』を担当しておられた山口勝アナウンサーの司会で、なかなか懐かしかったし、よかったです。
 ホームページの更新作業はこれからやります……。