猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

村井康彦『律令制の虚実』講談社学術文庫、isbn:4061597035

 というわけで、コミケの本を作りながら読んでいた本がこの本である。私の本は昨年の冬コミの本の改訂版だったが(関係ない)、この本は初出は30年前の1976年で、2005年の改訂版だ。
 日本では、8世紀に律令体制が整備されてから、形式的には律令が19世紀の明治維新まで残った。たとえば、大岡越前守の「越前守」は、形式上は朝廷の越前(福井県国司の長官を意味する。もちろん大岡越前福井県で地方長官なんかやってなくて、江戸の幕府で町奉行とかをやっていた。しかし形式上だけは律令で定められた官職を保持していたのだ。浅野内匠頭(たくみのかみ)の「内匠頭」、吉良上野介(こうづけのすけ)の「上野介」も同じだ。
 ところが律令制の実質は摂関政治時代にすでに機能しなくなっていた。律令制の基本制度であった「租庸調」制と班田収受制は平安時代に入ると機能しなくなってしまった。地方長官である国司のポストは中央では一種の利権と化して、国司の長官は赴任せずに地方からの収入だけを手に入れるようになった(国司は京都にいて収入だけを受け取るようになり、やがてその収入も入らなくなって名誉職になり、その名誉職としての称号が江戸時代にまで引き継がれた)。一方で、地方では、国司の役所が在地豪族の根拠地に化してしまった。税制も土地制度も崩れて、別の制度に移行したのである。
 その制度が、形式化してから800年(院政の開始から明治維新までを採って)も形式として存続した。こういう例が外国にないわけではないと思うけれど、ともかく、律令制の形式としての存続は、日本の歴史のひとつの特徴だろうと思う。それは、たぶん、よく議論される「なぜ天皇制度が続いたか」ということと一体なんだろうと思う。
 じゃあその「律令制」というのは何なんだということで買ってみたのがこの本だ。
 この本によると、「律令制」は、隋・唐から導入されたものだけれど、最初からいわば日本の状況に合わせて選択的に導入されたという。たとえば、最初は「公地公民」だった土地制度が、開墾者や開墾地を譲り受けた者に一定期間の私有を認める「三世一身の法」と、開墾地の子孫代々の私有を認める「墾田永年私財法」によって形式化し、それが荘園制度につながって律令崩壊に至ったといわれている。しかし、この本によると、三世一身の法の前から開墾地の私有は認められていた。しかも、墾田を「私財」として認めたとした後も税は徴収している。つまり、国家財政の確保という観点から見ると、コストのかかる「班田収受」をやらずに税収を確保する方法が墾田の「私財」化だったわけである。だから、墾田私財化は律令制の破綻とかではなく、律令制の形式にとらわれない合理的な政策運用ということになる。
 それに限らず、日本の「律令制」は、中国の律令制を参考にしながら、日本の実情やその時代の天皇や指導者の個性を反映しつつ組み上げられていったもので、最初から融通のきかない構造ではなく、融通がきいて次々に変化していく構造だった。
 そうだとすると、そういう構造が江戸時代まで残存していてもおかしくはない。いや、明治維新体制だって、最初は各省の大臣を「卿」と呼んだように、律令制の名称を残して成立した。上のほうに別のシステムが乗っかってもその下に残存し、普段は形式とかステイタスとかとしてしか役に立たないけれど、何かあると引っ張り出されてくるものとしての「律令制」の「すごい柔軟さ」は、じつは律令制成立当初からのものだったのではないか。
 この理解は、平安時代の「国風文化」についての議論にもつながっていく。私が習った日本史では、菅原道真遣唐使廃止を提案し、それが認められて遣唐使が派遣されなくなって、日本の文化が中国文化から自立していったのが平安王朝時代の「国風文化」だという。しかし、この本は、日本文化は律令制制定時代から中国文化から一定の自立はしていたし、「国風文化」時代になっても王朝貴族の中国趣味は消えていないとして、そういう理解を相対化している。とくに、遣唐使派遣の中止は、何百年続いてきた遣唐使派遣の廃止というわけではなく、前年に決められた派遣が中止されたというだけのことで、たいした事件ではないのだという。
 では、「国風文化」時代の大きな特徴とは何かというと、京都と地方の断絶だと著者はいう。京都の朝廷側が「京都>地方」という優越感を持つ一方で、実質的には地方をコントロールできなくなり、京都から地方への赴任者には、それぞれの地方の「国ぶり」としての「国風」尊重が求められるようになった。この時代を特徴づける「国風」ということになれば、著者は、「中国風(唐風)に対する日本風」ではなく、「京都風に対する地方風」という意味のほうが大きいだろうという。
 私自身は、平安時代、荘園制度が確立した後の日本を、とっぴなたとえだけれど、ローマ帝国と似たようなものとして捉えてみてはどうかと考えてきた。ローマ帝国というのは、ローマ市という都市国家があって、その都市国家が、シチリアとかギリシアとかエジプトとかスペインとかの広大な属州を支配するという形式で成り立っていた。同じように、京都に荘園領主とか赴任しない国司とかがいて、地方を「属州」として支配していたと考えていいのではないか(いうまでもなく、ローマ帝国平安時代の日本とはいろいろな面で大きく違うので、あくまで「地方が首都の属州」という点だけで同じというだけだけど)。
 それは、そのステイタスの高さとは逆に、地方に対する掌握力を低下させてしまった。地方がコントロールしきれなくなったときに、危機への対処策として出てきたのが院政だった。そう考えてみてはどうかと思っていた。この本の著者はこんな素人っぽい乱暴な理解には賛成しないだろうと思うけれど、この本の内容は、ある面では私の理解と一致していると私は思う。どうなんだろう?
 ところで、134〜136ページに出てくる「楊貴(やぎ)氏の墓誌」について。これは吉備真備(まきび)の母八木(やぎ)氏(八木氏出身の女の人)の墓誌だとされるが、「やぎ」を「楊貴」と表記するのは唐の楊貴妃にあやかったものという理解に基づいて、ほんものか偽書かという議論がなされているらしい。真備の母八木氏が亡くなったとき、楊貴妃はまだ「貴妃」(唐の「きさき」の地位のうち一つ)の称号を得ていなかったからだ。
 しかし、必ずしも「楊貴妃にちなんで楊貴氏という表記になった」と理解する必要はないと私は思う。「やぎ」は漢字で「柳」と書くこともでき(「青柳」と書いて「あおやぎ」と読む読みかたは万葉集にあったと思う)、「楊」は「柳」の意味である。そこで、楊貴妃を意識しないまま、漢字の発音と「柳」氏の貴人という意味をかけて「やぎ」氏を「楊貴」氏と表記したとしても、それほど不自然ではない。
 この話は天平時代のエリートの唐文化への傾倒という流れで紹介されている。唐風文化への傾倒というならば、べつに楊貴妃の名にちなんで自分の母の氏の名を「楊貴」と書いたことにしなくても、「楊」という唐風の姓と漢字発音で表記したというだけで十分だと思う。