2000年初版(講談社)の本の文庫版・改訂版である。
紀元前5世紀ごろから紀元前3世紀ごろまで、中国の春秋時代末期〜戦国時代に活躍した一群の思想家「諸子百家」について、その時代背景・伝記と思想のエッセンスを簡略にまとめた本だ。個別に採り上げられているのは、道家系の老子と荘子、快楽主義者の楊朱、儒家系の孔子と孟子、墨家の墨子、荘子の友人で論敵の
おもしろかったのは孔子の話で、孔子は昔からの伝統的な「礼」を復興させようとしていたけれど、じつはそんな「礼」なんかちっとも知らなかったのだという暴露話である。由緒正しい儀式に参加したとき、孔子が儀式のやり方とかをいちいち質問するので、「じつは何も知らないのでは?」と聞かれ、「いや、いちいち質問するのが礼というものだ」と答えたという話は『論語』に出てくる。「重要な場では、わかっていることもいちいち確認して慎重に仕事をするものだ」とか、「自分の知っていることでも、場の主宰者の顔を立てて、いちいち主宰者に確認するのが礼儀だ」という教訓話として読まれるわけだが、浅野先生によると、たんに「孔子は知らなかったから質問して、つっこまれたからしらばっくれた」というのが真相らしい。いや〜、『論語』を読んだとき、これはたしかにおかしいよなぁと思っていたんですよね。
ここに見るように、浅野先生は孔子・孟子には徹底して冷たい。浅野先生の描く孔子は、ひとには「徳」だ何だと説教しながら、自分では自分に出番を与えてくれない国や支配者や天に対して文句ばかり並べているひねくれた老人だし、孟子は政治の現実を直視しないで空想的な「徳」を説いた空論家である。
全体として、浅野先生は、人間は下劣な存在であると考えているようで、それを直視するのがリアルな思想で、それを無視して理論や制度を説く思想家には厳しい。それにしても、鄒衍など他の思想家については、現実離れした論理を展開しても一定の理解を示しているのに、孔子・孟子についてはほんとに容赦ない非難を繰り出す。
そういういわゆる「リアリズム」的な人間観・思想観が悪いというわけではない。ただ、この本を読んで感じたのは、その「リアリズム」と合理主義が、この本の分析を浅いものにしているのではないかということである。
たとえば、墨子が「鬼神」の全能性を弟子たちに教えこんだのは、弟子どもが出世欲だけ強くて勉強のほうはやる気がないという困った人たちだったので、それを脅すためだと浅野先生は解釈している。しかし、当時の世界で、鬼神の存在を墨子や弟子たちがほんとうに信じていたとは考えられないだろうか? すくなくともその可能性を否定するための論証は十分ではないように私は感じた。
この本を読むと、当時の中国の思想家が現代思想に通じる観点を持っていたこともわかっておもしろい。たとえば、荘子は、「ことばは口から出た息だけで成り立つものでなく、意味を担って始めてことばになるのに、息としてのことばと意味のあいだにはっきりした対応関係がない」と書いているらしい。これは「ポストモダン」の出発点の一つとされるソシュールの「ラングとパロール」の議論を先取りした認識である。また、同じく荘子には、「始まりがある」と言えば「始まりはない」という反論があり得て、そうするとそれに対しては「始まりはないということ自体もない」という反論が可能だ、「ある」に対して「ない」と言えば、さらに「ないということそれ自体もない」という反論が可能だという議論がある。これなどはビッグバン理論に対して「ではビッグバンの前には何があったのだ」という問いが出てきていて、それに対してインフレーションとか零点振動とかの回答が出されている現代宇宙論を思わせる考えかたである。それはまあいいとして、哲学の流れで言えば、これは実存主義につながってくる考えかただろうと思う。
ところが、この本では、荘子の議論は「ラングとパロール」の議論へも展開しないし、実存主義にも展開しない。それで、荘子は他の思想家の発言を「何の根拠もなく自らの思想を絶対視するもの」と決めつけてしまったら、最後には自分の発言も「何の根拠もなく自らの思想を絶対視するもの」だったと気づいてしまい、沈黙してしまいました、という結論に達している。
私は思想というのはそんなに虚弱なものではないと思う(もちろん「虚弱な思想」はあるのかも知れない)。「声としてのことば」と「意味としてのことば」が正確に対応しないのならば、そのことを踏まえて次の議論を組み立てればいいし、「始まりがあるのかないのか」が論理的にはっきりさせられないのならば、その議論を飛ばして「私はここにいる」というところから議論を始めればいい。「何が正しいか」という議論を展開するのではなく、「それぞれの時代で何が正しいと考えられてきたか」を論じる「知の考古学」みたいな方法もある。荘子ははたして「その先」に進まなかったのだろうか? もしかするとそうなのかも知れない。しかし、他方で、浅野先生が「思想」というものに早く見切りをつけすぎているから、荘子が「その先」に進んでいた、少なくとも進もうとしていたにもかかわらず、その可能性が私たちに伝わってこないのではないかとも感じるのだ。まぁ、だったら「自分で『荘子』を読め」というのが浅野先生のご主張かも知れないけれど。
少なくとも、法家の「形名参同」という「自己申告・年俸制による成果主義」みたいな発想や「民間でできることは民間で」みたいな思想の現代性を主張するより、「声としてのことばと意味としてのことばの対応の不確かさ」を掘り下げたほうが、ずっと哲学書らしくなると思うんだけどな。ちなみに、「自己申告による年俸制の成果主義」は、韓非子や浅野先生が期待するように「古くからの支配層」を排除する機構として機能するとは限らない。むしろ、時代遅れになりかけた「古くからの支配層」が部下を都合よく統制するために使われることが多いのではないかと思う(私の職場ではどうかというと……ノーコメントです(^^;)。
また、浅野先生は孔子・孟子の現実離れした理想主義を厳しく批判する。それはそうなのだけれど、ではどうして孔子や孟子はそんな現実離れした理想主義を主張したのか。また、たしかに孔子や孟子が期待したほどには政治エリートに相手されなかったのは確かだけれど、それでも弟子は集まったし、話を聞いてくれた支配者だって少数ながらいる。現実離れした理想主義がどうして相手にされたのか。そのことが説明できないのではないかと私は思う。
同じ時代を研究している平勢隆郎さんの議論だと、「実力だけで成り上がった新しい支配者層が、自分の支配を正統化する理論として理想主義を受け入れた」という説明が可能だ(だとすると、孔子がじつは昔の「礼」を知らなかったことは何の障害にもならない。この成り上がり者連中だって知らないのだから)が、浅野先生はその点を十分に説明していないように感じる。
これ以外に違和感を感じた点は浅野先生の「疑古」批判だ。「疑古」論というのは、紀元前5世紀〜紀元前3世紀に成立したとされてきた書物の多くは、じつはその時代に書かれたものではなく、漢の時代(紀元前2〜紀元前1世紀ごろ)になってから書かれて「これは孔子が書いたものだ」などとでっち上げられたものだと主張する議論である。これに対して、浅野先生は、近年の中国での発掘成果を採り入れ、「疑古」論が「紀元前2〜1世紀に作られたもの」としていた書物が戦国時代にはすでに存在したことから、「疑古」論は「まやかし」であったと口を極めて非難する。
発掘成果によって「疑古」論(の一部)が破綻したことはまちがいないだろう。しかし、それが最初からこじつけであったという議論は理解できない(いや、まあ「編年の手がかりが雑」とか、理解できなくもないのだけど、説明が十分だとは思わない)。史料の状況がぜんぜん違うのだから、「疑古」論がその少ない手がかりを体系化して編み出した「思想史の編年」という方法を、現在の発掘成果を参照できる立場から罵倒まがいの批判を浴びせる(少なくとも私はそう感じた)のがフェアな議論だとは思わない。それに、紀元前1世紀ごろになって「じつはこういう経典があるんですよ」という触れこみで民間から「発見」されてきた「古文」経書の一部のように、明らかに漢代になって「偽作」された古典もある。「疑古」の立場には一定の根拠があったと考えるほうが妥当だと思う。
それに、「疑古」の立場を否定し、たとえば『荘子』の一部は荘子(荘周)というひとの著作だと主張するとすれば、「個人が自分の思想を不特定多数の読者に伝えるために書物を書く」という営みがいつどうやって成立し、それがどう社会に受け入れられたのかという議論が必要になる。個人が文章を書いて、それを個人に伝達するという方法は、けっしてあたりまえに昔から存在したものではないのだ。平勢隆郎さんのように、この時代の経典は何らかの政治勢力を背後に持ち、その政治勢力の正統性の論証のために書かれたものだと仮定してかかるのが正しいのかどうかはわからない。けれど、平勢さんは、すくなくとも「王朝の神秘的権威を見せつけるための文字→呪術的な宣誓儀式で使用するものとしての文字→行政文書で使うものとしての文字」という「文字」メディアの拡大段階を論じていて、それが経典の解釈に接続されている。それと較べると、浅野先生のこの本は諸子百家を論じる際に、「近代的な作者‐近代的な読者」像を最初から前提にしすぎているように私は感じた。そうでないのならその点はきちんと論じるべきだ。
私は、この本を読み終えて、北田暁大さん(id:gyodaikt)が『嗤う日本の「ナショナリズム」』で使っていた「時間の関税障壁」ということばを思い出した。あとである行い(たとえば学生運動)の結果を知ってから、そしてそれを客観的に見られる条件が整ってから、結果を知らないでその行いを行った人たちを非難することを、北田さんは「時間の関税障壁」を使うと表現していた。そして、北田さんは1970年代に起こったことを論じるにも「時間の関税障壁」を使うことには慎重だった。それに対して、浅野先生は、中国の戦国時代の思想家たちに対しても、史料の状況がいまより劣悪だった時代の先学に対しても、「時間の関税障壁」をフルに使いまくっているように感じる。この本は文章も読みやすいしコンパクトにまとまっていて理解しやすかったけれど、そういう点には私は最後までなじめなかった。