猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

19世紀的進化論――生物的進化論と社会思想としての進化論

 昨日、「力強い「ア」の音が堕落すると、口の開きかたが小さい「エ」や「オ」に堕落する」という考えはいかにも19世紀的進化論らしい考えかただと書きました。それで気がついたことです。
 それは19世紀的進化論の考えかたの特徴についてです。「19世紀的進化論」に限らず、「19世紀的自由主義」でもいいし、「19世紀的進歩思想」でも同じだと思います。
 私は、これまで、19世紀的な進歩思想は「単線的な進歩」の思想だと思ってきました。そういう議論に比較的多く接してきたからです。それは「何でも王様の思うがままというめちゃくちゃな君主制→ルールと官僚制のある近代的な絶対君主制憲法で権力者の行動をコントロールする立憲制→自由主義政治(議会制の導入)→民主主義(議会の大衆化、選挙権・被選挙権の大幅な拡大)」という政治の発展論についても、また、マルクス主義の「原始社会→奴隷制社会→封建社会→資本主義社会→社会主義社会→共産主義社会」という発展論についても言えることだと思います。
 それで、昨日、ふと「堕落」という発想について書いて気がついたのは、その「単線」というのは「成功する道筋が一本だけ」という意味だということです。つまり、それは、それ以外に、「成功しない道筋」、「失敗する道筋」、「堕落する道筋」は無数にあるということでもあります。
 多くの個体が、ばらばらにいろいろなことを試してみて、結果として一つの「成功する道筋」が見出される。その「成功する道筋」が「世界で一つの道筋」として確定するのは、「成功する道筋」以外を択んだ者は「淘汰」されるからだ――その信念を裏づけたのが進化論ということになるでしょう。
 もっとも、生物的進化論は、すべての生物が同じかたちに進化するという考えではありません。
 生物が生きられる領域は限られている。その限られた領域に自分の「生きる場所」を確保するためにいちばん優れた方法を身につけた生物が生き残るというのが進化論のアイデアです。だから、体を大きくして成功する生物もいれば、小さくして成功する生物もいるし、敏捷に動き回って成功する生物もいれば、鈍重でも巧妙に擬態することで生き延びる生物もいる。
 たしかに、恐竜類でも魚類でも(なんか動物分類上は正式には「魚類」という分類はなくなったらしいけど……?)ペンギンみたいな鳥類でも鯨みたいな哺乳類でも、海のなかで泳ぎ回るのに適当な身体構造はある程度決まってくるので、みんな似たような形になるというアイデアはあります(「収斂進化」というらしい)。それでも「海のなかで泳ぐのに適した身体構造」にしても、水の中で敏捷に動くのに適した身体構造、そう敏捷に動けなくても持続力のある身体構造、ヒラメみたいに底に張りついている身体構造などいろいろな「成功する道筋」があるわけです。けっして「成功する道筋は一つ」ではない、と書いていて、体が平らになって、海底に張りついて獲物を待ち構えつづけるペンギンはありえないだろうか?――とか想像してしまった。でも鳥類は呼吸のために浮上しなければいけないので難しいかな。ペンギンというのは、もしかすると、動き回っているから潜れるので、動いていないと浮いてしまう、航空機でいう「重航空機」みたいな存在なのだろうか? 機会があれば調べてみようと思う。
 だから、生物的進化論は「棲み分けと生き残り」の動態を解明する論理ということになります。全世界的に見れば、だから、生物の世界では「成功する道筋」はけっして一つではない。
 ところが、その進化論的な発想が社会に応用されると、なぜか知らないけれど、全世界で「成功する道筋」は一つという論理になってしまう。つまり、「こっちの国は民主的な議会制でうまく行くが、こっちの国では絶対君主制のほうがうまく行く」という論理は、19世紀的な進歩思想のなかでは通用しない。もし、19世紀的な進歩思想のなかで「絶対君主制のほうがうまく行く」国があるとしたら、それは「現段階では絶対君主制のほうがうまく行く」と「現段階では」という限定がつきます。なぜかというと、現段階ではその国は端的に「後れている」からで、将来は民主的な議会制のほうがうまく行く国になる、ただし失敗しなければ、という論理になります。それで、失敗すると、軍事的に征服されたり植民地になったりし、国が滅亡し、しかも民族そのものも消滅してしまうと考える。
 「棲み分けと生き残り」という発想から「棲み分け」の論理が消滅してしまうのです。
 そして、「国によって、民族によって、どんな政治が合うかはさまざまなのだから」という論理は、むしろそういう19世紀的進歩思想に抵抗する側、いわゆる保守思想の側から主張されていく。
 なんでなのかな?――と思います。
 それは、生物の専門家以外の側で、生物進化論を、「世界で最も成功した生物」を頂点とし、その「世界で最も成功した生物」以外は「失敗した生物」または「失敗しつつある生物」と見なす体系と捉えたからではないかと思います。
 つまり、もしかするとウィルスのほうが人間より成功している生物かも知れないとか、霊長類より昆虫のほうがよほど繁栄してるやんとか、そういう考えかたはしない。「人間>ほかの猿類>ほかの哺乳類>鳥類>爬虫類>両生類>硬骨魚類軟骨魚類無脊椎動物>キノコっぽい菌類>単細胞生物・細菌」みたいな「成功した生物」の序列、「生物の高等さ」の序列がはっきりとあると考える。そして、生物の「進化」を、その「最も成功した生物」への発展過程、「高等生物」への発展過程として捉える――という、もしかすると生物進化論からすれば「巨視的」すぎるような受け取りかたが、生物の専門家以外の社会の側で行われた。
 そう考えると、古生代三葉虫みたいなムシの時代で、中生代は、海は殻つきのイカアンモナイト)、陸は爬虫類の時代で、新生代は哺乳類の時代で、そしてその最後に人間というたいへん高等な生物が現れた、という過程として理解された。それぞれの時代の「最も成功した生物」が、ムシ→爬虫類→哺乳類とどんどん「高等」になっていく。そういうものとして理解した。もっとも、こういう議論をするには、三葉虫アンモナイトとどっちが古いかの結論が出ていないといけないわけで、そういうのっていつごろできたのかな? 本気で議論するなら調べる必要がありますね。
 生物進化論をこういうふうに考えると、19世紀的な世界では、社会とか政治とかの側からの要請とも合致してくる。つまり、「現段階では絶対君主制が適当な国」に無理やり「民主的な議会政治」を持ちこむとどうなるか? それは、三葉虫全盛時代に哺乳類を入れるようなもので、当時の「後れた」時代環境のなかでは、哺乳類は三葉虫に負けてぼろぼろになってしまう。だから「絶対君主制が適当な国」に無理に「民主的な議会政治」を定着させようとしても絶対に失敗する。それは、「革命」的な変化を否定する19世紀的自由主義の漸進主義の気質ともうまく合致したわけです。
 ということで、考察はまた続けることにして、今日はここで終わっておこうと思います。