猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

ソシュールの大仕事=大業績

 コミックマーケット以外のネタを一つ。
 買ってしまいましたよ、『印欧アナトリア諸語概説』(大城光正、吉田和彦 著 、大学書林asin:4475017955)。私にとっては実用性ゼロ、私が買ったために品切れになってしまったりしたら、ほんとにこの本を必要としている言語学の学生さんに恨まれるかも。
 「印欧アナトリア諸語」というのは、現在はトルコ領のアナトリアで3000年ほど昔に使われていた言語です。インド・ヨーロッパ語族印欧語族)に含まれながら、早い時期に消滅して死語になってしまいました。このことばを使っていたヒッタイト帝国が滅亡した後も残っていたらしいですが、けっきょく、共通語ギリシア語(コイネー)に圧倒されて消滅したようです。
 「印欧アナトリア語」にもいくつかあるようですが、実際に話していた人の数はともかく、文書がいちばん多く残っているのはヒッタイト語だということです。やっぱり帝国の言語ですからね。
 このヒッタイト語の発見は、言語学上、けっこう重要とされているらしいです。
 ソシュールと言えば、現在は「ラング」と「パロール」の区別を立てて、ことばのなかで「音」と「ことばの意味」との無関係さを主張したひととして、「ポストモダン哲学」の起点に位置する人の一人として有名です(「無関係」という言いかたは変ですけど、許してください)。ところが、実際には、ソシュールはその前に言語学的に重要な仕事をしています。
 サンスクリット語の母音には「ア」の音が多く、「エ」や「オ」の母音は後から(「二次的」に)発生したとされるものが多い。19世紀にはそれがなぜなのかという問題がありました。最初のころは、もともとのインド・ヨーロッパ語(祖語、基語)でもサンスクリット語の母音の構成が基本で、ほかのインド・ヨーロッパ語でも「エ」や「オ」は後から発生したと考える考えが主流でした。力強い「ア」が堕落すると、口の開きが狭い「エ」や「オ」に変化するという考えかたや、「イタリアのラテン語ギリシアの古典ギリシア語‐インドのサンスクリット語」と「東に行くほど古い=昔の言語に近い」という単線的な発想などに、19世紀的進化論と「東は昔はすばらしかったがずっと停滞している」という19世紀的東洋趣味とが合わさっているように見えて、興味深いですが。
 しかし、ソシュールはその考えを白紙に戻して、この「サンスクリット語でなぜ「ア」が多いのか」問題に取り組んだわけです。ソシュールは、サンスクリット語では、最初は「エ」や「オ」もあったのに、その「エ」や「オ」が一度はすべて「ア」に変化し、その後、また「エ」や「オ」が発生したと仮定した。そして、その過程で、インド・ヨーロッパ語を綿密に分析し、「現在はどこにも残っていないし、記録にも存在しないが、あったに違いない音」というものの存在を推定しました。その音は、どうやら、「弱いhの音」だったらしい。しかし、「そんなものは、すでに死語になった言語も含めて、どこにも残ってないじゃないか」ということで、この説は、ソシュールの生前にはあまり信用されなかった。ところが、このヒッタイト語の解読のなかで、この「弱いh」の音が発見され、それとともにソシュールの方法の正しさが実証された、というわけです(風間喜代三言語学の誕生―比較言語学小史』(岩波新書asin:B000J8JIOC)による)。
 比較言語・比較文法というのは、「ことばの意味がいったん定まってしまうと、ことばと意味の結びつきは容易には変化しない」ということを前提に推論を進める方法です。また、ソシュールは、「母音/子音」という区別以外に、音の区分を考えています(このへんになると私には難しくてよくわからないのですが)。そういう、音に対する考察の深さと、「ことばの発音と意味がいったん結びついてしまうとそれはなかなか離れない」という性質を知っていたからこそ、「音を出すこととことばの意味とは本来はまったく別」という本質を見抜くことができたのだろうと私は思います。
 なんにしても、「ポストモダン思想の入り口」としてしかソシュールを知らないのは、ソシュールに対する誤解とはいわないまでも、「ソシュールの知りかた」としてはもったいないように思います。