猫も歩けば...

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マルクス主義が「宇宙的」に正しかった時代

 いまとなっては、マルクス主義はせいぜい社会についての理論にすぎません。しかもその「正しさ」感は失われています。「マルクスを再評価しよう」とがんばっている人は何人もいますが、「マルクス主義」の評価はよくない。マルクスの再評価に取り組んでいる人たちは、「マルクス主義」はマルクスを曲解したものであって、マルクスを理解するためには役に立たないという位置づけをしたりしますから。そして、マルクスが「私はマルクス主義者ではない」といったというエピソードが引用されたりもします。
 では「マルクス主義」は評判が悪いのかというと、それを通り越して、いまでは「マルクス主義」自体が忘れられようとしていると私は感じています。たとえば、日本共産党は、マルクスの協力者エンゲルスのいう「科学的社会主義」を掲げる政党のはずなのだけれど、いま共産党のトップページを見てみると、少なくともトップページには「マルクス主義」ということばも「科学的社会主義」ということば(1980年代にはよくこのことばを使っていた)も見つけられませんでした。
 ところが20世紀半ばには事情が違いました。マルクス主義は、社会についての理論であるとともに、自然科学も含めた科学全体についての理論としても信頼度の高い理論だったらしい。
 どうしてそうだったかというと、何より、社会主義国としてソ連が存在したことが大きいでしょう。ソ連は資本主義大国アメリカに先がけて人工衛星スプートニクの打ち上げに成功しましたし、1961年には人間を乗せた宇宙船を宇宙に送って、地球に帰還させることにも成功しています。ソ連は科学技術大国である。そしてその成功の背後にはマルクスレーニン主義の思想がある。そういう雰囲気があったのではないかと思います。
 それに、政治的な社会主義への期待も高かった。社会主義が実現すると、貧富の格差のない「みんなが豊かな社会」ができるのではないかという期待があった。それは、やっぱり「貧乏」が生活の直接の脅威であり(いまもそうだけど)、しかも政治的社会主義の「結果」が出ていない時代だったから。社会主義に「まだ見ぬ理想世界」の実現を託するという気もちは強かった。
 日本人全体に強かったかというとどうかわかりませんが、ともかく、何ごとも理論で理解しようとする知識人には強かった。スターリンの恐怖政治もあり、1956年にはソ連ハンガリーに軍事介入するハンガリー事件が起こったし、いろいろとネガティブな情報も伝わっていたけれど、それは、資本主義陣営が事実を誇張して宣伝しているだけと思われたか、せいぜい「理想」に向かう途上の暗黒面だと認識されただけだった……のだろうと思います。その時代に生きていたわけではないからよくわからないけど。
 そういう点では、中国の(1989年の)天安門事件とか、「東欧」諸国の革命とか、ベルリンの壁崩壊とか、ソ連崩壊とかの「結果」を見てしまった私たちとは、やはり違う。マルクスレーニン主義社会主義が「みんなが豊かな社会」ではなく「みんなが貧しい社会」を作ってしまったという「結果」を私たちは知っているけれど、1950〜60年代の人たちはまだ知らない。「社会主義」ということばに接したときにまず感じる「第一印象」は、1950〜60年代の知識人と現在の私たちとでは正反対ほどに違うだろうと思います。
 世界は「まだ見ぬ理想」に向かっている。実際の世界が理想に向かっていないならば、向かうように努力すべきである。なぜなら、自然界は、そして宇宙は、その理想によってできており、動いているのだから。そして、自然界であれ、人間の社会であれ、世界を認識し、実践するための正しい方法がマルクス主義なのだ、というわけです。
 この時代、マルクス主義の「正しさ」感は「人間」の規模を越えていて、マルクス主義は「宇宙」規模で「正しい」と思われていた、ということではないかと思います。