猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「無秩序さ」感が魅力の街

 帰りは、池袋方面に出るのではなく、丸ノ内線都電荒川線に乗ろうと思って、池袋とは反対側に行きました。で、地理不案内なもので、少し迷いました。でも、それで、いろんな街の表情を発見できて、街で「迷う」ことの愉しさも実感した。製造業の町工場的な工場があったり、銭湯に出会ったり、昭和後半らしい街並みに出会ったり。寝不足のうえ、荷物を持っていたのでたいへんではあったけど。
 今回のペーパーに「大阪の市街は、基盤が「古都」なので、新しいビルも古い市街も「碁盤の目」の区画の上にきっちりとすわっていて、品のよい街だと感じる」という感想を書きました。で、それに対して、私は、東京の街並みはどちらかというと「無秩序さ」の感じが魅力だと思っています。「複雑系」感というか。「無秩序」的なものに何かあるんじゃないかということを探っていくのが、私は東京の市街地を歩く愉しさなんじゃないかと思っているのです。
 そういう「無秩序さ」が嫌いという人もいる。建築関係の人には、そういう「無秩序」さがいやだ、もっと一つの都市の建築というのは、計画的に、統一感を持って作られるべきだというひともいます。そういう思想に私は全面的に反対ではない。それに、いまの東京の「無秩序」さは、防災上はあんまり好ましくないのかも知れない。
 けれど、でも私はそういうところが好きです。劇場版『パトレイバー』(第一作)に引きつけて言えば、「バベル」でよかった、というか。何かに統一された秩序ではなく、ことばが通じなくされた者たちがそれぞれ勝手に作り上げていくものが、出会い、ぶつかったりくっついたりしている、そしてそこにだれが意図するわけでもなく浮かび上がってくる別の「秩序」感みたいなものが、はっきりとではないけれど、感じられる。それが魅力的だと思うわけです。
 前にも書いたことですが、少し動いただけで見える景色が変わる、もうちょっと先に行ったところでどんな景色が見えるか予想がつかないという街並みが好きなんですね。まあ、治安状況を信頼していられるから、そういうことが言えるのかも知れませんが。
 いま、昔の『思想地図』の第三巻の「アーキテクチャ」論(2009年5月)を読み始めたところです。今日、迷ってみたことで、いまの東京を起点に「アーキテクチャ」を論じるときには、そういう「無秩序さ」感を意識して論じないといけないよな、ということを感じました。