猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

昨年末に出したものについて

 昨年末(ってまだ一週間経ってないけど)、コミックマーケットで刊行されたWWFさんの『WWF No.45 魔法少女アーキテクチャ』に小説「さそり座の少女」を寄稿しています。
 私の文章以外は力作揃いなんですけど、私のは、なんというか……で、ページ数は食ってるんですけど……そのうえ原稿大幅遅延で編集スタッフには大迷惑をおかけしたんですけど……。
 今回の特集は「魔法少女」ということでした。でも、『魔法少女まどか☆マギカ』は見たのですが、その前に見た「魔法少女」ものというと、たぶん『おジャ魔女どれみ』の2番めのシリーズあたりまでさかのぼってしまう(台湾で「国語」吹き替えで「どっかーん」は見ましたけれど)。「魔法少女」を最大に解釈して「神様少女」まで含めても『かみちゅ!』までだろうと思います。だいたい、その時期を境に、ほとんどテレビでアニメを見なくなってしまいましたし(もちろん、アニメ以外はもっと見ていない)。
 で、『まどか☆マギカ』については前の特集で書いてしまったし、その上でさらに評論を書けるほど見ているわけでもないので、今回はどうしよう、と。
 それで、特集名が「アーキテクチャ」で、つまり「構築されたもの」だったし、だったら、「自分で魔法少女ものを書いてみる」というのをやってみたわけです。それで評論本に掟破りの小説を寄稿するということになりました。まあ、前にやったことがないわけではないですが、それは押井守本に『パトレイバー』の二次創作を、という試みだったので、二次創作でもない小説を寄稿するのは初めてです。というか、そういうのは自分の小説サークル(アトリエそねっと)でやれよ、と、いうことになるだろうなぁ。
 今回、こういう試みをやってみたのは、2009年にやはりWWFさんで「武器と少女」特集をやったときに、「(物理的武器で)戦う少女ものを自分で書いてみて、その経験をもとに評論を書く」というのをやろうとして、けっきょくできなかったという体験があったからです。そのとき「こういうのを書いてみよう」ということで立てた構想が、その後に取り残され、いままで尾を引いている。その一部がいま刊行している『紅の水晶』です。
 いったん書こうとして書けないと心残りになってあとに残る。そうならないようにともかく最後まで書いてみた。そうするとなんか長くなって、本を重くする結果になってしまいました。
 で、できあがった本を読んでみると、ほかの執筆者の方がたは、「魔法少女」ものを完全にフォローしておられない状態でそれぞれきちんとした評論を書いておられて、なんか忸怩たる思いです。
 で、やってみてわかったのは、私ぐらいの構想力・筆力の者がいま「魔法少女」ものを書くと大きな「『まどか』の壁」があるということです。物語の傾向が『まどか☆マギカ』の影響を受けてしまう上に、その先には進めない――まあ当然のことではありますけれど。商業出版物も出しておられる作家さんからも、あるところで「全部虚淵さんにやられてしまった!」というお話をうかがったことがあるので、私などはそうなって当然、とも思いますけれど。
 私は、(『かみちゅ!』的な)「島の地方都市」と、宇宙論的な宇宙の危機を重ね合わせるという無謀なことをやってみたのですが、やっぱりなかなか整合しないわけで。どうしてこのキャラクターとその宇宙的重大危機が重なり合うのかということの説明がけっきょくできませんでした。
 「選ばれた少女なんだ!」とかやってしまうと、今度は「選ばれた」ことの説明が必要になりますし、「だれにでも起こりうること」だとすると、どうしてその一人のキャラクターにそれが起こったかの説明が必要になる。けっきょくそれがどっちも難しいということになってしまいました。
 現実の世界では、ある人にあるできごとが起こるというのは、どんなに珍しいことであっても、また理不尽であっても、「偶然、そうなったから」という説明で納得するしかない局面も多い。でも、ファンタジーでは「いや〜、このキャラが宇宙の運命を背負うことになったのはただの偶然なんだよね」では、「当座の説明」以上のものはできない。絶対に「その先」とか「その裏」とか「真相」とかの説明が求められてしまいます。
 現実世界でもほんとうはそれは求められるので、それで因縁とか宿命とかが語られたりしてきた。近代世界ではもうそれが通用しない、近代世界はそれを通用させないことにした、というだけです。そうすると、現実の近代世界では偶然性とか偶有性・偶発性がどうも処理できなくなってしまう。そういう話は別の機会があればそのときにやるとして……。
 だから、ファンタジーでは、そのファンタジー世界のあり方にちょうど適した理屈が求められるわけで。
 それを考えると、「少女の希望から絶望へ相転移するエネルギーが宇宙のエントロピーの増大を回復する」という論理は、『まどか☆マギカ』のファンタジーのあり方にちょうど適合している、ということが納得できます。
 ほかにも、書いている途中にどんどん設定が変わっていって、いろいろ食い違いが生じて、直している時間がなくてなんか収拾がつかなくなっている、というのはいつものことといえばいつものことなんですが(唐突に出てくる「ジュリア」という名まえの説明もしていないし)。
 あと、あらためて考えてみると、「膜(ブレーン)宇宙論」とか「宇宙膨張の再加速」とかは、いかに知識が先に与えられていることにしても、とくに天才とか物理学・数学マニアとかではない中学生では、本を読んでも理論的に理解できないかな、とも思います。少なくとも私が中学生のころのことを思い出してみると、そのころの私にはやはり理解できなかっただろうと思う。立体図形とかの初歩は勉強していたので「三次元」まではわかるんだけど、「時間が第四の次元」と言われると「?」になってしまう。それはそうで、時間と空間の絶対的区別はないんだ、ということは、少なくとも特殊相対論を知らないと理解の取っ掛かりもつかめない。だから、私が中学生とか高校生とかのときには、「5次元」とか言われても「5次元だとUFOが地球に来れるんだ〜」みたいな「実感」しかなかったものです。
 「多世界解釈」もいっしょで、ファンタジーとしては理屈抜きに「並行世界というのがありうる」というのは理解できるのだけど、学的な説明となるとやっぱり量子力学の初歩あたり(「一つの粒子が同時に二つの隙間を通ったと考えないと現象の解釈ができない。しかし一つの粒子が二つの同じ粒子に分かれることは絶対にありえない」をどう説明するか)の問題が必要になってしまうので、やっぱり難しい。
 逆に、そういう数学的理解のない段階で、膜宇宙とか、ダークエネルギーとか、多世界解釈とかの「イメージ」だけがある状態というのはどんな感じがするのだろう、ということも、やっぱり詰めて考えてみたほうがよかった問題かな、などとも考えています。
 「あれはこうすればよかった」みたいなのは少しずつ考えているので、いつの日か改訂版を出せればと思っています。