猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

TRIP?Strike行って来ました

 また3か月ほど沈黙していました。申しわけありません。
 そんなことで、ほんとうにいまさらなのですが、これが震災後初の日記になります。
 あらためまして、震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。消息のわからない方のご無事を、そして早く連絡がつくことをお祈りします。被害を受けられた方がたにお見舞いを申し上げます。
 震災後、どういうふうにことばを発していいかわからず、けっきょくこれまで沈黙をつづけることになってしまいました。5月のはじめから即売会には出ていたのですが、それについても何も書かないままで来てしまいました。いまも、この大きな災害を前にして、何をどう言っていいか、やっぱりわからないままでいます。
 ただ、震災は、被災各地でいまも続いているということをいつも忘れないでいたいと思っています。

 29日、被災地の花巻で開催された即売会 TRIP?Strike に行ってきました。
 3月の盛岡市の岩漫62が中止になり、実行委員会の方がたが、被災状況下でできるかぎり誠実に対応してくださったのが心に残っていました。このぶんだと、5月のTRIPも中止かと思っていたのですが、5月の始めに開催の方向をうかがい、いつもよりずっと遅かったけれども TRIP のご案内をいただき、とても嬉しかった。
 花巻は内陸なので、現在は被害が目立つこともなく、会場のしんろう会館、「箸で食うソフトクリーム」をいただいたマルカン大食堂ともこれまでどおりでした。マルカンデパートは地下の食料品売り場が閉まってしまったみたいですが。マルカンデパートは、服の売り場などで買い物をしたこともあって、良心的で感じのいいお店だとそのとき感じたので、業態縮小はやっぱりさびしいですね。
 新幹線からは屋根瓦を修理中の住宅もけっこう見かけました。また、イベントでは、震度6以上の揺れの凄まじさについても直接にお話しをきくことができました。拙宅は震度5弱(たぶん)だったのですが、その体験の延長としてはなかなか想像できない揺れだったのですね。

 それで、TRIPの会場で、岩手へのメッセージを集めるという企画を行っていたサークルさんがあったので、書かせていただきました。これも、メッセージは書きたかったのだけれど、何を書いていいかわからず、けっきょく、今回の災害後、ずっと印象深く感じているフレーズについて書かせていただきました。それは:


北上川が一ぺん氾濫しますると

百万疋の鼠が死ぬのでございますが

その鼠らがみんなやっぱりわたくしみたいな云ひ方を

生きてるうちは毎日いたして居りまするのでございます
というものです。
 でも、後になって、これをいきなりご覧になった方は、奇異に感じたり、「百万疋の鼠が死ぬって何?」と不快に感じたりなさるかも知れないな、と思いました。
 で、以下、その言いわけを含めた説明です。

 この文章は、宮沢賢治の未刊行の詩集『春と修羅 第二集』の「序」の最後の部分です。
 宮沢賢治が生前に刊行した詩集は『春と修羅』(第一集)だけで、有名な「雨ニモ負ケズ」のように、発表の意図があったかどうかわからない詩も多い。そのなかで、この『春と修羅 第二集』は刊行の意図は確実にあったようで、けっきょく印刷ができなかったために未刊行に終わったもののようです(ただし、「第二集」収録作には、一部、雑誌などに単独で発表された詩もあります)。やっぱり、「イベント前日の昼間まで影も形もなかった文章をイベント当日にコピー誌で出す」なんてことのできる時代じゃなかったですから。
 だから、このフレーズは、とりあえずは「多数」ではないにしても、不特定の人の目に触れることは意識して書かれたものと言っていいと思います。

 宮沢賢治がこれを書いているのは、自分を詩人のグループに誘ったりするのはやめてほしいという流れにつづけてです。たぶん東京を中心とする中央の詩壇へのメッセージです。ここで、宮沢賢治は、「詩人であること」を、畑を耕したり肥料の設計をしたりという生活よりも「高等」なことと思うような詩壇の考えからは離れて、そういう生活と自分の詩作りとが一体であるという思いを表明している。その前には、多少ではあるけれども特権を受けられた農学校の教員の仕事をやめたということが綴られています。少しでも特権のついて回る立場を捨てて、よりじかに土に接する仕事に生き、そのなかで詩を作り続けるという自負や覚悟の表明です。そのあとに「さう申したとて別に何でもありませぬ」ということばを介して、さっき引用した一節が続くのです。だから、ここで「わたくしみたいな云ひ方」と言っているのは、直接には、詩人のグループに誘ったりしないでほしい、というようなことを指します。
 ただ、そういう詩壇へのメッセージが、突然、「北上川の氾濫で死ぬ百万匹のねずみ」というたとえに跳ぶので、どきっとする。
 それは、土に接する生活と自分の詩作りが一体だと宣言してしまったことへの照れや後ろめたさの感覚でもあるだろうし、そんなことを言われたら不愉快に思うであろう中央の詩壇の人たちへの言いわけでもあり、さらにもうひと押しのメッセージだったりもする。「言い切ることの後ろめたさ」という感覚は、宮沢賢治の作品にはいつもついてくる感覚のように私は思います。しかし、それは、同時に、後ろめたいと感じても言い切らずにはいられない、という感覚とも一体であるわけです。これは、よく知られた詩でいえば、たとえば「雨ニモ負ケズ」で、「理想的な自分」像というのをずっと書いておいて、最後に「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」とつけ加えた感覚にもあらわれています。
 でも、その「文脈」はわかったうえで、やはり「北上川の氾濫で死ぬ百万匹の鼠」という、陰惨で、でも壮烈ですらあるこのイメージは、その文脈を離れて私の頭にずっと残っていました。また、これを書いた後の宮沢賢治は、大病に襲われ、それと闘いながら、できるかぎり「土に接する仕事」もつづけ、詩も作り、「銀河鉄道の夜」や「セロ弾きのゴーシュ」のような作品を書き続け、と、壮絶な生を送ることになった。まさに北上川のねずみが氾濫に抗うような生になったわけです。そのことも印象に残っていました。

 震災で私が思い知ったのは、自分が、いかに危険な場で、しかもその危険への対処のしかたもろくに考えずに生きてきたかということです。地震そのものや、津波災害や、放射性物質の問題など、一個人で(もしかすると多人数でも)考えても対処しきれない問題もあります。そして、それ以上に、人間が「いつかは死ぬ」ことはわかっていても、なるべく死のことを考えずに生きようとするように(ハイデッガーの言う「頽落」ということになるのでしょうけれど)、「危険がある」と認識していても、それについては、通り一遍のことを考えただけで、それ以上、自分の問題、自分たちの問題として深く考えようとしなかった。そのことを強く感じたわけです。
 北上川のねずみも、北上川がいつか氾濫することは知らないか、知っていても自分の問題としては考えようとしない。そこに氾濫が襲ってくれば全滅してしまう。
 でも、北上川のねずみとしては、そういう場で、「あなたたちの言ってることは高等そうだけれど、私はぜんぜんそういう生きかたをしようと思わない」などと、大きなことを言っている。そう言いながら生きている。氾濫が来たらどうしよう、どうやって生き延びようということを先に考えればいいのに、それはやらないで、そういう自己主張をしている。愚かに見えるかも知れないけれど、それしかしようがない。しようがないかどうかもわからないけれど、ともかく、その生きかたを選ぶ。
 私もそうするしかないなと思いました。そして、けっきょく自分が感じていることをちゃんと書くのがいちばんいいと思って、「岩手へのメッセージ」にそれについて書かせていただいたわけです。
 ご不快に思われた方には「ごめんなさい」と言うしかないと思います。

 宮沢賢治作品に詳しいある方に、この一節のことを震災以来考えつづけているとお話ししたら、「グスコーブドリの伝記」の下書き稿に同じ表現が出てくるということを教えていただきました。
 「グスコーブドリの伝記」は宮沢賢治の晩年(1932年)に発表された作品です。その直接の下書き稿として「グスコンブドリの伝記」という原稿が残っている。ブドリは、冷害を救うために火山を人工的に噴火させ、その仕事のために命を捧げるわけですが、下書きにはそれをやめるように説得される場面がある。そこに、イーハトーヴ川が氾濫すればどれだけのねずみが死ぬと思う? ということばが出てくるというのです。発表された「グスコーブドリの伝記」には、思いとどまるように説得される場面はありますが、そのことばはありません。
 この下書き稿の載っている『宮沢賢治全集』(文庫版)は持っているはずなのですが、現在、自宅の中で行方不明になっています(震災のはるか前からです)。そこで、秋葉原の「月夜のサアカス」さんに行った折りに読ませていただきました。
 下書き稿「グスコンブドリの伝記」には、全部にわたって、発表された「グスコーブドリの伝記」よりもずっと詳しい描写があります。最初の少年時代の話も発表されたものよりもずっと細かくて長い。その原稿から、作者が重要でないと思った部分を、たぶんできる限り削ってできたのが完成稿だと見てよいようです。で、そのイーハトーヴ川のねずみの話も、その削られた部分に入ります。
 この作品ではさまざまな災害が技術的に避けられることになっている。ただそれでも冷害は防げないのです。冷害が現実に襲って来たときに、少年時代に冷害の被害で家族を失っているブドリはそれに耐えられない。ほかの災害は防げるのに、冷害だけ防げないという事実に落ち着きを失う。それに対して、イーハトーヴ川が氾濫すればたくさんのねずみが死ぬのは避けられないことだし、それと同じように、冷害で多くの被害者が出るのも避けられないと説得される。それでもけっきょくブドリはあきらめきれない。そして、やがて、火山を噴火させて大気中の二酸化炭素を増やし、人工的に温暖化を引き起こして冷害を避けるという方法に行き着くわけです。これ自体は現在ではあまり推奨されないやり方だと思うけれど、1932(昭和7)年の時点で、大気中の二酸化炭素の量を変えることで気候を変えるという発想が「童話」に近い小説のなかで使われているというのは、それはそれですごいことだと思います。
 宮沢賢治自身は自分自身を「北上川のねずみ」にたとえていた。川が氾濫すれば死ぬのが確実なのに、そんなことは知らないように自分の立場を懸命に主張している。けれども、自分がその「川が氾濫すれば全滅するねずみ」を救えるかも知れない立場に立ってみたとき、宮沢賢治作品の主人公は、自分の命を犠牲にしてそれを救うことを選ぶのです。
 ここには宮沢賢治に独特の感覚があるわけですが、同時に、人間全体にそういうところはあると思う。自分の生存のために懸命になる。それとは違う位相で、自分の生存のためならばつきつめて考えないことでも、他の人の生命がかかっていれば懸命にその致命的な事態を避ける方法を考える。そういうところがあるんだと思います。
 この両方のこと、つまり、自分がいる場が「北上川のねずみ」と変わらないと自覚することと、その「ねずみ」たちを救える立場になればそれを救うためにあらゆる方法を考えるはずだということは、いまの事態に向き合っていくときにも、ものごとを考える導きになってくれるはずだと、私はいま感じています。
 この「グスコンブドリの伝記」について教えてくださった方に感謝します。