即売会参加予定
10月より同人誌即売会へのサークル参加を再開しています。
先週土曜日(16日)には福生の第3回TAMAコミにサークル参加しました。第2回に続く参加です。会場のサークル配置も、雰囲気もゆったりした即売会で、この「ゆったり」感がずっと続いてほしいと願っています。
このときは、直前があまりにも忙しくて告知ができませんでした。
さて、次の日曜日(24日)には、ビッグパレットふくしまで開催されるみちのくCOMITIA7に参加します。
F8「アトリエそねっと」です。
https://adv-kikaku.com/comitia/
今回合わせの新刊はありませんが、2020年以来刊行したものをお持ちします。また、TAMAコミの新刊『日本史研究室の午後』(8月に「カクヨム」に掲載したもの)もお持ちします。
みちのくCOMITIAではこれまでいろいろな出会いがありました。昨年は「委託のみ」になってしまったのが残念でした。今年は直接参加がかないます。感染対策をしっかりして参加します。またいろいろと出会いがあればいいな、と思っています。「カクヨム」に掲載した『荒磯の姫君』(「上」が完結、このあと「中」を掲載します)をはじめて世に出したのがこのイベントの前身となる「創作旅行」でした。
そして、その次の日曜日31日は「制服コミュニケーション3」に参加します。
https://cc.uniformkiss.com/index.html
昨年初めて参加しましたが、楽しいイベントだったのが印象に残っています。こちらはこのイベント合わせの新刊があります。来週になったらまた告知したいと思います。
どうかよろしくお願いします。
鈴木由美『中先代の乱』について(8)―光厳上皇像の転換―
この本の大きな特徴の一つは「意欲的で積極的な光厳上皇」像を打ち出したところでしょう。
何に意欲的で積極的だったかというと、持明院統の存続と安定について、です。
従来、光厳上皇というと、落ち着いていて、無欲で、まわりの情勢に振り回されて一生を送った人格者というイメージでした。積極的で、活動的で、どんな逆境も自分の力でひっくり返してみせるという自信家・野心家の後醍醐天皇とは対照的な人物とされてきました。
21世紀に入って、伝記として飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)と深津睦夫『光厳天皇』(ミネルヴァ日本評伝選)が刊行され、それがどちらも「落ち着いていて、無欲で、人格者(でキャラの強いヒーローたちに振り回されて一生を送った)」という人物像を描いているということがあります。
実際、最後には、京都の街区からは遠く離れた地に隠棲して禅の修行を積み、「一禅僧として葬ってほしい」と言い残して亡くなったことなど、この世の権力に固執しない枯淡の極致という生きかたで、しずかな強い印象を残します。
六波羅探題陥落のときには、六波羅探題のメンバーとともに東国へ脱出しようとして逃げられなくなり、いっしょに来た武士たちが集団で自害する現場に居合わせたとか、「観応の擾乱」で足利尊氏が南朝に降伏したとき、形勢を逆転されて不利になった南朝側に連れ去られ、南朝の監視下で不自由な生活を送らなければならなかったとか(「地獄を二度も見た」というのはこの二つの体験を指します)。常に巻き込まれてひどい目に遭っている。
こういうイメージは『太平記』からあります。有名なのは、光厳上皇が法事で遅くなって、夜、牛車(ぎっしゃ)で帰ろうとしていたら、酒に酔っていた足利幕府の大名の土岐頼遠に「なに? 院だと? イヌなら弓で射て落としちまえ!」と絡まれて、悪質なあおり運転で車を破壊されて道に投げ出された、というエピソードでしょう。その結果、頼遠は、足利尊氏や弟の足利直義に顔のきく偉いお坊さんに頼んで許してもらおうと工作したけれど、あまりに悪質で罪は重いということで打ち首になってしまいました。
『太平記』は、歴史物語であるとともに、いろいろな教訓を盛り込んだ教訓物語という面があります。ここでも、とても時代を先取りして、飲酒運転やあおり運転をやってはいけない、という教訓を盛り込んでいるんですね! (たぶん違う)。
政治権力を手放してからは、お寺に参詣に行き、一般人扱いされて苦労しながら、吉野の山奥(賀名生。五条から十津川沿いに新宮に行く途中)の南朝の宮廷に到達して、南朝側の後村上天皇と対面した、というエピソードも『太平記』にあります。事実とは考えられない、ということですが、「太平」の時代を先取りしようとする『太平記』大詰めの印象深い場面です。
あと、やはり無欲で人格者の花園天皇に養育され、「太子をいましめる書」というのを与えられ、人格者教育を受けていた、というエピソードもあります。花園天皇にこういう人格教育を受けている以上、やっぱり無欲でまじめで人格者に違いない、と。
ただ、そういう「無欲な人格者」のイメージにそぐわないエピソードも、以前から知られていました。
その一つは、息子の崇光天皇を天皇にした後(光厳上皇の弟であった光明天皇から譲位)、「じつは花園天皇の皇子ということになっている直仁親王は私の子なので、天皇の位はこの直仁親王とその子孫に継がせ、崇光天皇の子孫は直仁親王の子孫に仕えるように」と言い出したことです。
「この子はこれまで叔父さんの息子ということになっていたけど、じつは私の子なので」というのは、けっこうびっくりします。「人格者」のイメージには非常にそぐわない。
しかも、これまで自分の子として育ってきた兄の天皇に、「あとで譲位して、天皇の位を自分の子孫に伝えるのはあきらめてね」と言うっていうのは……どうなの?
「ある皇子を即位させ、その後、弟を即位させる」ということ自体が、だいたいトラブルのもとでした。
平安時代には、村上天皇の次の世代に、冷泉天皇に続いて弟の円融天皇を皇位に就けたら、皇統が冷泉天皇系と円融天皇系に分裂した。このときは、藤原道長という、とても意欲も能力もあるひとが出て、両方の皇統と関係(娘を天皇に嫁がせる)を作って円融天皇系優位でまとめます。ところが、道長の子の藤原頼通は、娘を天皇に嫁がせたものの天皇になるべき男の孫が生まれず、円融天皇系の天皇後朱雀天皇と、冷泉天皇系の皇女(禎子内親王、陽明門院)とのあいだに生まれた後三条天皇が皇位を嗣ぎ、この対立はいちおう解決しました。
そのあと、鳥羽上皇が、子の崇徳天皇から弟の近衛天皇に譲位させ、これがおおもとの原因となって保元の乱が起こった。このときは、近衛天皇が上皇にならないまま亡くなってしまい、いろいろややこしいことになりつつ、最終的に平清盛が登場して平清盛が支持する高倉天皇の系統で決着します。
後嵯峨上皇も、先に皇位に就けていたお兄さんに「譲位しなさい」と言って弟を皇位に就けたために、この兄弟がそれぞれ持明院統と大覚寺統の祖になって、「皇統分裂」という事態になりました。
同じような危機はじつはその後の大覚寺統にもありました。大覚寺統の後宇多上皇は亀山天皇(亀山法皇)の子で、自分の子の後二条天皇を即位させ、さらにその次の大覚寺統側の皇位継承者に後二条天皇の子の邦良親王を立てようとしていました。これが大覚寺統の本流です。
ところが、後宇多上皇のお父様の亀山法皇が、自分の末の子の恒明親王を天皇にすると言い出したのです。もしこれが実現すれば、亀山法皇‐後宇多天皇‐後二条天皇‐邦良親王という「本流」は本流から外され、亀山法皇‐恒明親王という「新たな本流」が生まれるはずでした(しかも邦良親王からは一挙に祖父の世代まで戻ることになります)。
ところが、そのあと亀山法皇が亡くなり、後宇多上皇が大覚寺統の最長老になったため、恒明親王が大覚寺統の「新たな本流」になることはできませんでした。
しかし、この「恒明親王を後継者に」運動のために用意された資産(主として荘園群)は、後宇多上皇が予定した大覚寺統本流(後二条天皇‐邦良親王)ではなく、後二条天皇の弟の後醍醐天皇と、その子の世良親王を「大覚寺統の新たな本流」にするための運動に受け継がれます。亀山法皇が自分の末の子を天皇家の本流にしようとしたことが、後醍醐天皇がその子孫を天皇にするという動きの間接的な出発点になっているのです。後醍醐天皇の子孫が天皇になるというのが南朝ですから、つまり南朝の出発点はそこにあったわけです。
なお、世良親王は1330(元徳2)年に亡くなり、皇太子になることはできませんでした。しかし、この、世良親王に天皇の位を嗣がせようという運動の中心に貴族の北畠親房がいて、後醍醐天皇の没後、北畠親房が強硬派の一員として南朝を支えることになります(以上は岡野友彦『北畠親房』ミネルヴァ日本評伝選によります)。
こういう混乱を見ているのに、なお「直仁親王は私の子なので、お兄さん(崇光天皇)は位を譲り、以後、直仁親王の子孫を天皇にするように」というのが、「無欲な人格者」なの……?
それに、自分を養育してくれた叔父さんの花園上皇に「こんど、男の子産まれたんですけどね。うちの子として育てると差し障りがあるから、叔父さんの子として育ててくれません?」というのは……。
なお「直仁親王はじつは私の子なので」という点は、他の人に見せるはずのない文書にもそう書いてあるので、確実だと思われています。
この点は、これまでもやっぱり違和感が感じられていたようで。
もともと自分を育ててくれた花園天皇への光厳天皇の恩返しではないかという説がありました。花園天皇は、後伏見上皇の子である光厳天皇(量仁親王)が成年に達するまでの「中継ぎ」で、子孫に皇位を伝えられないことが最初から決まっていました。しかし、花園天皇は、光厳天皇にとっては育ての親です(実の親=後伏見上皇も健在なんだけど)。そこで、その恩に報じるために、自分の子を花園天皇の子として扱い、その子孫に天皇位を伝えることで、ともかくも花園天皇の子孫に天皇の位が伝わった、というかたちを作ろうとした、という説です。
最近では、崇光天皇よりも直仁親王のほうが血縁が足利氏に近いので、直仁親王の系統に皇位を伝えることで足利氏の支持を取りつけようとしたのではないか、という説も提唱されています。
また、直仁親王の誕生は1335(建武2)年で、中先代の乱のころに懐妊がわかっているので、生まれたのはたぶん足利尊氏が九州へと転戦して京都からいちばん離れていた時期でした。つまり、京都では後醍醐天皇の勢いが強い時期です。
この時期に、直仁親王を光厳上皇の子として育てると、兄の(後の)崇光天皇とともに出家させられてしまうなど皇位を継ぐ可能性を消されてしまうことを危惧した可能性もあります(「退位してから出家」ならば院政を行えるが、先に出家してしまうと原則として天皇になれなくなる)。そこで、「保険」として直仁親王は花園上皇の子にしたのではないかとも思います。花園上皇の子は皇位を継がないことになっているので、後醍醐天皇からのチェックも甘く、そのほうが安全、ということです。
ただ、これは私の推測で、まったく根拠はありません。
また、持明院統の天皇はみんな無欲な人格者かというと、そうでもなく。
光厳天皇の祖父にあたる伏見上皇は幕府に警戒されるくらいに自己主張の強い天皇(上皇)でした。子孫のほうも、光厳天皇の子にあたる後光厳天皇とその子孫の後円融天皇、後小松天皇と、それぞれかなり自己主張の強い天皇(というか、それぞれ権力を握ったのは院政をしている時期なので、自己主張の強い上皇)でした。
そういう点を考えると、著者の「積極的で意欲的、ときには陰謀家の光厳天皇」というイメージは、そんなに不自然なものではありません。
しかし。
光厳上皇のコーディネートによって、西園寺公宗が建武政権打倒のクーデターを起こし、それに連動して北条時行が鎌倉を占領、北陸地方は名越時兼が統一して北陸の兵を率いて京都へと進撃、もしかすると東北南部でも結城盛広が建武政権側の陸奥将軍府(北畠顕家。親房の子)を制圧……みたいな計画があったとする。
それで、後醍醐天皇を廃位して光厳院政の実現を考えていたとする。
光厳院政が実現したのが後の北朝なんですよね?
で、北条時行は、中先代の乱敗北後、後醍醐天皇側・南朝側に立って戦い続けました。
……なんか一貫してなくないですか?
一貫してなくていいんですよ!
乱世なんだから。
ほんと、乱世でなくても一貫してない人はいっぱい……いやなんでもないです!
でも、北条時行さん、一貫はしているのです。
「反建武」。
むしろ、光厳上皇が、この失敗の後に「建武政権足利尊氏派」と手を結んで、時行の「反建武政権」の立場と袂を分かった。光厳上皇が立場を変えたのです。
光厳上皇が、京都を脱出して西へと向かう足利尊氏の立場を上皇として承認し、尊氏を「反乱軍」の立場から救ったわけですが。
そのとき、光厳上皇は、もう「正慶五年」とは言っていません。「建武」を受け入れたのです。その後、北朝の院政を始めたときも「建武」のまま改元していません。
つまり、光厳上皇は建武政権を一部分認めたわけです。
建武政権とは、後醍醐天皇+足利氏の連合政権だった。
それが「建武政権後醍醐天皇派」と「建武政権足利尊氏派」に分裂した。
私たちは、「足利尊氏は建武政権から離脱し、建武政権に敵対した」と考えますよね?
でも、「足利尊氏も建武政権だ」、「足利尊氏こそ建武政権だ」という感覚もあった、と考えてみます((5)で論じたとおり)。
光厳上皇は、反後醍醐天皇だったので、「後醍醐天皇派+足利尊氏派」の建武政権は否定しなければならない。だから「正慶」の元号にこだわった。
しかし「建武政権足利尊氏派」と連合して「建武政権後醍醐天皇派」と戦うのであれば、「建武」を否定する必要はなくなる。
北条時行が「建武」を認めないのであれば、当然、光厳上皇とも立場が違ってくる。
時行が南朝側という立場になってからは、光厳上皇とは敵どうしになる。
そういうことではないかと思います。
鈴木由美『中先代の乱』について(7)
前回から間があいてしまいました。
西園寺公宗陰謀事件と中先代の乱で、公宗と時行は連携していたのか?
著者が示す連携説の根拠の第一の根拠は、中先代の乱をうけて公宗が(事実上)処刑されていることでした。これについては、私は、前回書いたように、「建武政権がその可能性を危惧した」ということは言えても、連携したとは必ずしも言えないのでは、と考えています。
では、第二の根拠はというと、時行が「建武」の元号を使用せず、「正慶」という元号を使用していること、そして第三の根拠はほかの北条一族の反乱も同時期に起こっていることです。
元号の問題はややこしいので後回しにして、ほかの北条一族の反乱について。
前に書いたように、この建武政権期には15回の北条与党の反乱が起こり、それと関連するかも知れないものを含めると20回以上、平均してひと月に一回は反乱が起こっているわけですから、まあ、「西園寺公宗陰謀事件・中先代の乱と同時に反乱が起こっている」といっても「通常どおり」みたいなところはありますが。だから、何の連絡もなかったけど、「頻繁に起こっている反乱がたまたまその時期にぶつかった」という可能性はあります。
著者が挙げているのは、中先代の乱とほぼ同時か、少し遅れて起こっている、北陸での名越時兼の反乱です。北条氏の名族名越氏の時兼が、加賀・越中・能登(現在の石川県・富山県)の軍勢を率いて京都に向かおうとして敗死したという事件です。ほかに、京都で起こった北条高安という人物の決起未遂事件も関係があったと見ています。また、奥州の結城盛広の反乱は中先代の乱が波及したものですが、これももともと何かの連絡があったのかも知れません(著者はそこまでは言っていません)。
それをつなぎ合わせてみると。
越後、奥州(現在の奥州市ではない)、信濃、京都で反建武政権一斉決起を起こし、一挙に建武政権を転覆しようという全国規模(少なくとも京都以東で足並みを揃えた)の軍事クーデター・軍事反乱計画が存在したのではないか、ということになります。
西園寺公宗の陰謀というのはその中核部分で、それと連動して、信濃と越後で反乱を起こし、京都と鎌倉を同時に制圧する。そういう壮大な計画があったのではないか。
でも、そういう壮大な計画はなかなか成功しないもので。
後の「正平の一統」の際に、南朝が勢いに乗って足利方(尊氏と義詮)を京都と鎌倉から追い出そうとしたときも、両方で失敗しています。
もし「一斉決起」計画があったとすると。
この時代に、どうしてこういう壮大な計画が行われたかというと、それは、鎌倉と京都の同時攻勢による、鎌倉幕府と六波羅探題の同時討滅という事件を見てしまったことの影響が大きいんじゃないかと思います(これについては、岡野友彦『北畠親房』(ミネルヴァ日本評伝選)での、正平の一統についての叙述を参考にしました)。
このときも、足利‐新田一族でその壮挙が可能だったのだから、それを上回る名族の北条氏が出て行けば、ということを考えたのかも知れません。
もちろん、それぞれが別々に反乱のプランを立てていたら、たまたま連動してしまった、という可能性もやっぱりあるので、史料的な制約を考えると、なんともいえないところです。
そこで、元号の件なんですけど。
公宗のバックには、建武政権からの復権を狙う光厳上皇がいた。そして、光厳上皇が、まだ少年の時行に「時行」の名を授けて元服させ(成人儀礼を行わせ)、北条家本家の当主であることを保証した。
西園寺公宗と後伏見法皇・光厳上皇のつながりがあったのは確実です。それに歩調を合わせるように、時行も、「正慶」という元号を使用している。
元号というのは「天皇が時間を支配している」ということを具体化した制度です。
だから、後醍醐天皇と持明院統で、「だれが正しく在位している天皇か」で対立している状況では、両方で使う元号、使いたい元号は違うわけです。
1330年頃から建武政権崩壊までのあいだ:
後醍醐天皇が定めた元号:元弘、建武、延元
光厳天皇が定めた元号:正慶
です。「建武」は、後醍醐天皇が一方的に定めた元号なので、光厳天皇としてはできれば使いたくない。
一方で、後醍醐天皇は、光厳天皇の在位を認めていないので、「正慶」元号は存在しないことにしており、自分が定めた「元弘」から、自分が改元した「建武」へと続くという認識です。
そして、北条時行は、中先代の乱当時、建武政権の「建武」はなかったことにして、「正慶」の元号を使っています。
つまり、「持明院統の天皇(光厳上皇)が本来あるべきだと思っている元号」を使っているのです。
西園寺公宗が持明院統と提携していたのは確実です。そして時行も正慶の元号を使用しているということは、持明院統との強固な連携があった。
そうである以上:
「持明院統の代表者=光厳上皇が、西園寺公宗と北条時行(と名越時兼と結城盛広?)を組織して、一挙に反建武政権軍事クーデターを企てていた」
という推定が成り立つ。
それがこの本の主張です。そして、公宗が(事実上)処刑されたことと、同時に他の北条与党の反乱が起こったことに加えて、この根拠もあるならば、この「全国的陰謀」説も認めていいのではないかと思いますが。
でも、いろいろとびっくりするような話です。
鈴木由美『中先代の乱』について(6)
ところで、この本では、中先代の乱は、その直前に起こった西園寺公宗(きんむね)陰謀事件との連携があった、としています。
西園寺家というと、ひとによって非常にイメージの違う一族で:
(1)中世史を学んでいる人、中世史ファンにとっては、西園寺家というと、鎌倉時代、関東申次(もうしつぎ)という役職を務め、院・朝廷と幕府との連絡役となり、鎌倉時代の天皇の皇后を輩出してたいへん権勢を振るった一族です。
つまり、院・朝廷の超エリートで、親幕府政策・親北条氏政策をリードした名門ということになります。藤原氏の一族で、摂家に次ぐ「清華(せいが)」という家格をもっていました。
(2)近代史の人にとっては、政友会総裁で、二度首相を務め、長州・陸軍閥の桂太郎とともに「桂園時代」を実現し、後に「最後の元老」となった西園寺公望(きんもち)です。鎌倉時代の名門西園寺家のはるかな子孫です。この公宗の時代からずっと「公(きん)○」という名を受け継いでいるのですね。政党の総裁から首相、元老ですから、たいへん権勢を振るった人ですが、同時に戦前日本の「憲政」を支えた人でもあります。
(3)そして、『究極超人あ~る』のファンにとっては、もちろん西園寺まりい・えりか姉妹。
春風高校でたいへん権勢を振るった一家です。
それは、こういう家柄ですから。
えりかちゃんは般若心経が暗唱できて当然なのです(このネタいま何人に通じるだろう?)。
で、ここは中世史の話なので、(1)です。
それで、鎌倉時代中ごろからの天皇家は、持明院統と大覚寺統に分かれていました。
後嵯峨天皇の皇子のうち二人が皇位につき、そのうち兄の後深草天皇の子孫が持明院統、弟の亀山天皇の子孫が大覚寺統です。
一般的に、持明院統が親幕府・親北条氏、大覚寺統が比較的反幕府傾向が強いと言われます。
北朝の系統の光厳上皇・光明天皇が持明院統です。
で、後醍醐天皇はいちおう大覚寺統なのですが、じつは大覚寺統本流ではありません。
大覚寺統本流は後醍醐天皇の兄の後二条天皇なのですが、わりと若くして亡くなり、その子の邦良親王も若くして亡くなっているので、この時代、大覚寺統本流は無力な存在になっていました。ちなみに、南北朝対立が始まると、大覚寺統本流は京都に残ります。したがって、北朝側が「両統迭立」を続ける気ならば北朝の皇位が大覚寺統本流に回ってもよかったのですが、現実にはそうはなりませんでした。
後醍醐天皇は、持明院統とも、大覚寺統本流とも違う、後醍醐天皇独自の「皇統」をうち立てようとしたのです。
で、西園寺公宗は、持明院統の上皇を奉じてクーデターを企てたとして、建武2(1335)年6月(旧暦)、建武政権側の楠木正成・高師直に逮捕されました。
最初にこの二人の組み合わせを知ったとき、私は「なにこの組み合わせ?」と思いましたよ。
楠木正成といえば後醍醐天皇の忠臣として知られています。
それに対する高師直は、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏の「執事」で、後に尊氏の下で権勢を振るって「観応の擾乱」を引き起こす人物です。
『仮名手本忠臣蔵』では、同時代の政治批判になるのを避けて、史実の吉良上野介(義央)に当たる役がこの高師直になっています。悪役の印象がとても強い(なお、高師直については、『観応の擾乱』の亀田俊和さんによる伝記があります)。
でも、当時は、足利尊氏も高師直も建武政権に仕えて積極的に活動していたわけですから、この組み合わせは自然です。
この西園寺公宗陰謀事件とほぼ同時に北条時行決起事件、つまり中先代の乱が起こっているので、この両者には連携があったかどうかが問題になります。
著者の鈴木由美さんは連携があったとする説です。
その根拠の一つは、時行の決起を受けて、本来は身分制度的に死刑にできない西園寺公宗が政権側によって殺害されていることです。
ただ、この建武政権による事実上の処刑は、時行が鎌倉を占領し、関東・信濃から駿河・遠江あたりまで勢力を拡大した時点(8月2日)でのことで、時行の勢力が最も大きかった時点のことです。「時行に味方する者に公宗の身柄が奪還される→京都でも公宗を担いだクーデターが勃発して時行と連携する」という流れを政権側が警戒したということまでは言えるでしょう。しかし、そういう情勢下ですから、ほんとうに公宗が事前に時行と連携していたかどうかがかえってわかりません。危機感を持った政権側の「警戒のしすぎ」の可能性もあるからです。
また、著者も触れているとおり、この「処刑」は、足利尊氏が三河へ出発する日に行われています。尊氏の出発が、尊氏の独断専行ではなく、建武政権内のある程度の合意のもとで行われたとすれば、足利軍が不在で京都の警備が手薄になる前に、不安な要素である公宗を排除しておこうということだった可能性もあります。
これは、前に書いた、尊氏による時行討伐の遠征自体を後醍醐天皇が認めていなかったのか、それとも後醍醐天皇が認めなかったのは征夷大将軍の称号だけで、遠征自体は認めていたのか、という点に関係しますが。
いずれにしても、この点では、「建武政権が公宗と時行の連携を恐れた」ということは言えても、ほんとうに連携していたかどうかは不明、ということになるのでは、と思います。
そこで、この問題の検討は、この次に続きます。
鈴木由美『中先代の乱』について(5)
なぜ北条時行をはじめとする北条与党が南朝側を選んだか? それはこの時代をめぐる重要な問題につながっているのかも知れません。
その問題とは。
「建武政権を継承したのは、足利幕府体制なのか、南朝なのか?」という問題です。
普通は南朝だと思いますよね?
建武政権は後醍醐天皇が非常に強い指導力を発揮して樹立した体制です。「一から十まで後醍醐天皇のオリジナルではない」という説が最近は強いですが、オリジナルのアイデアではないにしても、後醍醐天皇が強力に推進して実現したのは確かです。
足利尊氏はその建武政権に反逆し、持明院統の光厳上皇を担ぎ出して北朝を樹立した(光厳上皇の弟が光厳上皇の子の待遇で即位して光明天皇になり、光厳上皇の院政。ちなみに弟に対しては通常は院政はできません。実際にはほかにも例はありますが)。後醍醐天皇はそれに反発して吉野へと脱出し、後醍醐天皇自身の朝廷を樹立(後醍醐天皇の立場からは再興)した。
こう見ると、連続しているのは「建武政権‐南朝」であって、北朝・足利幕府はその「建武政権‐南朝」の否定の上に成り立っている、ということになります。
戦前・戦中の「吉野朝正統」の歴史観ではもちろんそうなりますし、現在も、日本史の教科書もはじめ、そういう受け取り方が普通ではないかと思います。
でも、些細な問題かもしれないけど、「建武」の元号を引き継いだのは足利体制のほうですし(後醍醐天皇‐南朝側は「延元」に改元)、その建武の元号の下で作られた「建武式目」が足利幕府創立の重要な契機になっています。
細かいことをいえば、後醍醐天皇が吉野に朝廷を立てて(再興して)引き継いだのは直接には「延元政権」である。建武政権‐延元政権(建武政権から足利勢力が離脱)‐南朝と、どこが連続して、どこが連続していないかは、考えるポイントかな、と思います。
近年の研究では、初期の足利幕府は建武政権を、政策面・人脈面で引き継いでいる要素もあることが明らかにされています。だから「建武政権‐足利幕府」の流れもある。もちろん、足利幕府は京都に存在するので、設備も人材も建武政権のものをそのまま使えたのに対して、吉野に移ってしまった南朝にはそれが十分にできなかった、ということは考える必要はあると思いますが。
足利幕府側は建武政権を全否定してはいない。「足利幕府は建武政権の後継政権だった」、少なくとも「南朝も建武政権の後継政権だが、足利幕府も建武政権の後継政権だった」は言ってもいいのでは、と思っています。
もし、足利幕府が建武政権の後継者だという感覚がこの時代にあったとすれば。
そうすると、北条氏の側で、「建武政権はたしかにひどかった(だから中先代の乱で戦った)。しかし、そのひどい建武政権を引き継いだのは尊氏で、南朝も自分たちも尊氏に裏切られた被害者だ」という思いを本気で抱いたとしても当然、ということになります。
私たちは、「建武政権が何をいちばん変えたか」というと、鎌倉幕府討滅、摂関政治や院政の廃止、後醍醐天皇の親裁体制などを思い浮かべます。
しかし、もしかすると、この時代には、「建武政権のやったことでいちばん大きいのは足利幕府体制をうち立てたことだ」という感覚が(感覚も)あり、それが北条一族にいちばんフィットしたのではないか。
摂関政治や院政を否定した、といっても、南朝は、その後、関白は置いているし、どういう事情かはわからないけれど、生前譲位もしています。後醍醐天皇の親政志向が強烈だったといっても、雑訴決断所のような合議機構も設置しています。親政志向に複数の合議機構の新設が重なり、ごちゃごちゃして批判されたわけですが、私はある程度は「制度の立ち上げの時期ってそういうもんだよね」と思っています。また、年少の、実質的に指導力のない皇子を、有力な臣下に補佐させるという形式で、地方支配機構として「陸奥将軍府」・「鎌倉将軍府」も設置しています。
だから、時行や他の北条一族は、建武政権が落ち着いてきたら、鎌倉幕府は再建されて、その執権は北条一族のだれかに委ねられるという期待をしたかもしれません。
ところが、実際に建武政権が再建した「鎌倉将軍府」では、執権の立場に足利直義が入った。それは許せないので攻撃して直義を追い出したら、尊氏が来て鎌倉を再征服した。そして、その勢いで、尊氏は征夷大将軍になってしまった。
こうなると、鎌倉幕府が再建されたとしても、北条氏は執権になれないし、それどころか将軍が実権を握ってしまって「執権」の出番なんかなくなってしまう。それよりは、南朝のほうに鎌倉幕府再建の可能性を賭けた、という可能性もあります。
私たちが建武政権の決定的な特徴と思っていることは、当時の北条一族には決定的とは思えなかった。当時の北条一族は、もしかすると、鎌倉幕府は滅亡したのではなく、一時中断しているだけ、と考えたかもしれません。現在の視点から見ればあり得ないことかもしれませんが、当時は、「後醍醐天皇またはその子孫の皇統の下でならば、「鎌倉幕府再興→執権として北条氏再興」の可能性がある!」と信じることができたのかも知れない。
北条一族にとっては、それよりも、足利尊氏の征夷大将軍就任と足利幕府の開創のほうが「不可逆な変化」に映った。北条氏が権力を握るとしたら、将軍は「君臨はするけれど統治はまったくしない」親王将軍でなければならない。足利氏が将軍になって権力を握ってしまえばそんなことはあり得ません。
足利幕府体制が存在する以上、鎌倉幕府の復活はあり得ないし、北条氏の執権への復活もあり得ない。だから、そちらのほうこそ、全力で否定しなければならない。そして、その「不可逆な変化」を否定するという目標で、北条一族と南朝はごく自然に一致できる。
それが北条一族の当時の感覚だったのではないか。そして、それは、もしかすると、北条一族だけではなく、この時代にはほかでも抱かれた感覚だったのかもしれない、という可能性を、私は考えています。
鈴木由美『中先代の乱』について(4)
鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)には、中先代の乱の後、北条時行やほかの北条一族がどうしたかも描いてあります。
中先代の乱後、北条時行は南朝側で戦った。
しかも、ほかの北条一族(北条与党)の反乱も南朝側で戦った。
でも、南朝って後醍醐天皇で、後醍醐天皇は鎌倉幕府全面否定、とくに北条氏全面否定だったんじゃない?
なんでそっちに味方するの?
著者も紹介しているように、『太平記』には、時行が後醍醐天皇に赦免を求めたときのことばが載っています。父の高時が後醍醐天皇に討伐されることになったのは高時個人の問題だが、尊氏の行いは北条氏に対する裏切りで、絶対に許せない、というものなのですが。
なんか、こう……。
後醍醐天皇にも尊氏にも味方したくないけど、どっちかというと尊氏の「許せない度」のほうが上だから、という苦渋の選択なのか?
それとも、ほんとうに、後醍醐天皇が高時を討伐したのは当然、と、わだかまりを抱いていなかったのか?
どうも「苦渋の選択」のほうではなさそうです。
時行はその後は一貫して南朝側で、「正平の一統」当時の鎌倉攻撃に参加して敗れて命を落としています。時行の「南朝に味方する!」という決意は強かったと見たほうがいいでしょう。「苦渋の選択」だったら、情勢に合わせて迷ってよさそうなものですが、そういう形跡はありません。また、ほかの北条一族も同じ選択をしている。「苦渋の選択」だったら、ほかの北条一族の対応も割れそうなものなのに、一致している。ということは、やはり、わりと強固な決意を持って南朝に味方した、ということでしょう。
江戸時代には、前の時代の最高支配者である足利氏の子孫も織田氏の子孫も徳川体制の下に組み込まれて明治を迎えました。しかし、足利体制には、前の時代の最高支配者である北条氏を支配下に組み込む意思はなかった。
第二代将軍の足利義詮は「母は北条氏、祖父の母も北条氏」という血筋なのに。
それでも、足利体制が、鎌倉時代末から南北朝時代までの敵対勢力に対しての許容度が低いのは確かだと思います。南朝の子孫(「南朝皇胤」)についても、足利義満が「両統迭立」(北朝の子孫と南朝の子孫を交替で天皇にする)と約束した手前、しばらく存続させますが、第六代将軍足利義教の時代に「みんな僧にして子孫を残させない」という政策に転換します。
足利体制の側が「北条氏の存在は認めない」という政策を明確に採っていたから時行や他の北条一族は南朝を選択するしかなかったのか?
それとも、足利体制の側はもっと柔軟だったけれど、時行や北条一族の側のプライドが「足利なんかの手下になってたまるか」と意地を張ったのか?
それはわからない。
わからないけれど、この点は、とても重要な問題につながっているのではないかと私は感じます。
※「鈴木由美『中先代の乱』について(4)」が重複(同じものを二回掲載)してしまいましたので、先に掲載していたほうを削除しました。
益川敏英さんの訃報に接して
『中先代の乱』(中公新書)についての感想の「連載」の途中ですが、益川敏英さんの訃報に接しましたので、益川さんのことについて書きたいと思います。
もっとも、益川さんの社会活動については私はよくわからないので、その物理学上の功績のお話が中心です。といっても私は物理学がよくわからないので、私が理解しようとして理解できた範囲での話です。その点はご容赦ください。
なぜ宇宙が存在しているのか?
もうちょっと言うと、なぜ「物質のある宇宙」が存在しているのか?
益川さんは、小林誠さんとともにこの謎を解く鍵となる「小林‐益川理論」を発表されました。このことが評価されて、ノーベル物理学賞を受賞されました。
「物質がある宇宙」って、宇宙に物質があるのはあたりまえじゃないの?
何がふしぎなのでしょう?
「神様が宇宙をお創りになった」という説明が科学的な説明として認められなくなったあと、「ではなぜ宇宙は存在するのか?」という問いがありました。それに対して、ビッグバン理論が出され、それを支えるさまざまな理論が提出されて、「宇宙はなぜ存在するのか?」の説明はできるようになりました(中世史のことを書いていると「かみ」と書くと先に「守」と変換されるようになってしまう。うーむ)。
ところが、「なぜ物質がある宇宙が存在するのか?」という謎が、20世紀になって生まれてきました。
20世紀の「困った発見」(科学者たちを困らせる発見)の一つに、「反物質の発見」というものがあります。
ある物質があれば、それとはある性質だけが(詳しく言うと電荷だけが)まったく逆で、ほかはまったく同じという物質が必ず存在する。それを反物質といいます。
そして、同じ種類の物質と反物質が出会うと消滅してエネルギーになってしまう。
エネルギーから物質ができるときにも同じことが起こります。エネルギーが一点にたくさん集中するとそのエネルギーが化けて物質を生み出すのですが、そのとき、物質と反物質を必ず同じだけ生み出すのです。
このどちらのプロセスも実験で起こすことができるので、理論がまちがっていないことは証明されています。
で。
ビッグバン理論によると、この宇宙は想像を絶するエネルギーのかたまりとして生まれました。つまり、この広い宇宙に広がっている全エネルギーが一点に集中していたのですから、それはもう、ことばで表現できるのをはるかに超えるような(と、ことばで表現していますが、まあそれはいいとして)大量のエネルギーだったのです。
宇宙はエネルギーのかたまりとして生まれたわけですから、そこから物質ができるとしたら、「エネルギーから物質と反物質が同じだけ生まれる」という法則に従えば、宇宙には物質と反物質が同じ分量だけできることになる。
物質と反物質は出会うと消滅してエネルギーに戻ってしまいます。しかも、物質と反物質はほうっておいても引っ張り合うので、自分からすぐにくっついてエネルギーに戻る。
ということは、宇宙の中には物質と反物質が同じ量だけあるのだから、宇宙の中の物質はやがて反物質と結びついてエネルギーに戻ってしまい、宇宙にはエネルギーしか存在しないことになってしまう。
ところが、いま、宇宙には物質がいっぱい存在する。私たちの身の回りの「もの」も、私たち自身も、地球も、太陽もほかの惑星も、それどころか、望遠鏡でごくかすかに見える遠い「銀河」も、基本的に物質だけでできている。
反物質は存在しません。
それはそうで、反物質が身のまわりに普通に存在したら、20世紀より前に人類はその存在に気づいていたはずです。しかし、20世紀になって、理論的に「こういうものがあるはずだ」と言われるまで、だれもそんなものの存在は知らなかった。
電子とかの小さい粒子については、エネルギー反応の結果、たまに「電子の反物質」(「陽電子」といいます)が生まれます。しかし、それは、すぐに電子と結びついてエネルギーに戻ってしまいます(ちなみに「電子の反物質」が近くの電子と結びついて消滅してエネルギーになる反応を利用して人体の中を探ろうという診断法が「PET」と呼ばれる診断法です)。
物質だけでできた宇宙が存在するという現実がある。
「エネルギーからは物質と反物質が同じ量だけ生まれ、その物質と反物質は出会うと消滅してエネルギーになる」という理論がある。そして、実験装置で実験してみると、そのとおりの現象が起こる。つまり、エネルギーからは同じ量の物質と反物質が生まれ、それはやがて出会って消滅してエネルギーに戻ってしまうという現実がある。
矛盾します。
その矛盾をどう解決するか?
その矛盾を説明するための理論の一つが「小林‐益川理論」です。
私たちの世界は物質でできていて、その物質というものは、さまざまな種類の原子核が電子によって何種類かの結びつけかたで結びつけられてできています(「見えない物質」であるダークマターというものはそれとは違うできかたをしているようですが、それについてはここでは触れないことにします)。
その原子核は、プラスの電気(電荷)を帯びた陽子(ようし)と、電気を帯びていない中性子とが寄り集まってできています。
ところが、人類が原子爆弾を生み出した第二次世界大戦の前後、原子核を構成する粒子についての研究が進みました。「原子爆弾」といい、「原子力」といっても、そのエネルギーは原子核のものです(だから「核爆弾」とか「核エネルギー」とか言う)。だから、人類が原子核からエネルギーを取り出そうとした時代には、原子核の研究が進んだわけですね。
で、そういうことを調べていると、陽子と中性子のほかにも「原子核を構成する粒子の仲間」が存在することがわかりました。陽子や中性子に似たものもありましたが、陽子や中性子とは違う「奇妙な」性質を持っている粒子も存在していることがわかりました。そういう、「奇妙な」粒子、または「新奇な」粒子はストレンジ粒子と名づけられました……って英語ではそのまんま。
で、その奇妙な粒子は、ほうっておくと陽子や中性子に化けてしまって「奇妙」さを失ってしまいます。この変化に何か法則性がないか、ということで、その法則性を説明しようとイタリアの物理学者カビボが「カビボ角」の理論というのを編み出しました。
この「角」というのは、グラフにしたときの直線の傾きの角度のこと、と、とりあえず説明していいかと思います。確率をその直線の傾きで表現するわけですね。
一枚のメダルを投げて、表が出るか裏が出るか、という実験をする。
表が出る確率が2分の1だったとしたら、傾きが2分の1の直線は傾きの角度が45度なので、この「確率の角」は45度いうことになります。100回投げて37回が表ならば、表になる「確率の角」はだいたい30度になりますし、100回投げて63回が表ならば、表になる「確率の角」はだいたい60度になります。100回投げて100回表ならば90度です。
とても単純化して言うと、「奇妙な粒子」(ストレンジ粒子)が陽子や中性子から生まれたり、逆に「奇妙な粒子」が陽子や中性子になったり、という反応の確率を、この角度で表現する理論がカビボ角の理論です。
もちろん「グラフの傾きを角度で表現しよう」というだけならべつに素粒子物理学者でなくても考えつくのですが、その方法を使って「奇妙な粒子」の性質の説明に成功したのがカビボの功績だったわけです。
さて、そうこうするうちに、原子核の研究がさらに進んで、クォーク説というのが出てきました。
当時の技術では、原子核をどんなに破壊しても陽子と中性子以上には分解できませんでした。
しかし、陽子は「アップ」という性質(「アイソスピン」という種類の性質です)を担う粒子2つと「ダウン」という性質を担う粒子1つでできている。中性子は「アップ」を担う粒子1つと「ダウン」を担う粒子2つでできている。そう考えると、陽子と中性子の性質を、陽子と中性子以外の「原子核を構成する粒子の仲間」と統一的に把握できるのではないか、という説が提唱されたのです。
この、陽子や中性子やそれ以外を構成する粒子を何と呼ぶかでひと悶着どころかいくつも悶着があり、最終的に、アイルランドのとても難解な現代小説(『フィネガンズ・ウェイク』)から「クォーク」という名がつけられました。クォークということばを使えば、陽子は「アップクォーク2つとダウンクォーク1つ」、中性子は「アップクォーク1つとダウンクォーク2つ」でできている、ということになります。共通の素材でできているけど、その素材の比率が違うんだ、ということですね。
こう考えることの利点は「奇妙な」粒子の説明もできることです。その「奇妙さ」を担うクォークというのがあって、それが入っていれば「奇妙な」粒子(ストレンジ粒子)になる、ということで説明がついた。その「奇妙さ」を担うクォークはストレンジクォークと名づけられました。やっぱりそのまんま。
そして、クォーク説を採用すれば、カビボ角の理論はより明快に説明できるようになった。
ストレンジクォークは電子一個分のマイナスの電気(電荷)を放出してアップクォークに変化することができます。アップクォークも、電子一個分のプラスの電気(電荷)を放出してストレンジクォークに変わることができる。ここで、ストレンジクォークからアップクォークに変わる確率が、アップクォークからストレンジクォークに変わる確率より圧倒的に大きいから、世のなかには「奇妙な」粒子はほとんど存在せず、アップクォークとダウンクォークからできた陽子と中性子ばっかりが普通に存在するんだ。カビボ角の理論を使えば、その説明ができたのですね。
ところで、ストレンジクォークは性質がダウンクォークと似ていて、ある面でダウンクォークの仲間であると考えることができます。ところがアップクォークと共通する性質を持っている仲間のクォークはほかに存在しないと、そのころは考えられていました。
ダウンクォークにはストレンジクォークというお仲間が存在するのに、アップクォークには存在しない。
釣り合ってないじゃん?
釣り合ってないとなんか気もち悪いじゃん?
それ以前に、不都合な問題がありました。
ストレンジクォークはアップクォークに(電子一個分のマイナスの電気を放出して)変化することができる。アップクォークは(電子一個分のプラスの電気を放出して)ストレンジクォークに変化することができる。
アップクォークからダウンクォークへ、ダウンクォークからアップクォークへという変化も同じように起こります。アップクォークが電子一個分のプラスの電気を放出してダウンクォークになる。ダウンクォークが電子一個分のマイナスの電気を放出してアップクォークになる。そういう変化です。
これは、中性子が陽子に変化してマイナスの電気を帯びた放射線(ベータ線)を放出する、陽子が中性子に変化してプラスの電気を帯びた放射線を放出するという、クォーク説が提唱される以前から知られていた現象(「ベータ崩壊」といいます)の説明になっていました。
「放射能」が問題になるとき、多く問題になるのがこのベータ崩壊です(それ以外もありますけど)。
アップクォークには、変化する先の選択肢が、ダウンクォークとアップクォークの二つがある。そのどっちに変化するかの確率をカビボ角理論が説明したわけです。
ところが。
こうなると、ダウンクォークがストレンジクォークに変化する、ストレンジクォークもダウンクォークに変化する、という変化が起こってよさそうなものです。むしろ、電子一個分のプラスの電気とかマイナスの電気とか、そういうのを放出する「手間」がないだけ、かんたんに移り変わってよさそうなものです。
電気の量(電荷)が変化すると、その変化するぶんは高エネルギーの放射線として放出されるので、放射線を打ち出すエネルギーが必要になります。電気の量(電荷)が変化しないダウンクォークとストレンジクォークの移り変わりは、その放射線打ち出しのエネルギーがいらないはずなので、もっとラクに行えるはずです。ラクに行えるはずの変化はもっと頻繁に起こるはず。
ところが、それが起こっているところは観測できない。
これを説明するために、仮説が立てられました。
ストレンジクォークとダウンクォークもいつも移り変わっているのだが、ストレンジからダウンへの移り変わりと、ダウンからストレンジへの移り変わりがいつも厳密に同じ率で起こっているので、観測で見つけることはできないんだ、という説です。
ところが、こうするとまた問題が出てきます。それは、アップクォークにはそういう「ラクな移り変わり」モードが存在しない、という問題です。
世のなかには、ストレンジクォークはほとんど存在せず、アップクォークとダウンクォークがほぼ同じ量存在しています。クォークそのものは観測できないけど、この世のなかの原子核には陽子と中性子がだいたい同じ数(もちろん原子核によって差はあります)入っている。陽子はアップ×2とダウン×1、中性子はアップ×1とダウン×2なので、陽子一個と中性子一個を合わせるとアップ×3とダウン×3になって同じ数になる。世のなかにアップクォークとダウンクォークがだいたい同じ数だけ存在しているから、陽子と中性子がだいたい同じ数だけ存在している。
ところが、ダウンクォークだけが「ラクな移り変わり」モードを持っていると、アップクォークとダウンクォークのバランスが崩れて、世のなかにアップクォークとダウンクォークがほとんど同じ量だけ存在している、という説明がつかなくなってしまうのです。
そこで「アップクォークにお仲間が存在しないのは釣り合いが悪い」問題が登場します。じつはそれは存在するのでは? もし存在するとしたら、アップクォークからその「お仲間」への移り変わりと、「お仲間」からアップクォークへの移り変わりがいつも厳密に同じ率で起こっている、ということで、ダウンクォークと条件がそろいます。アップクォークとダウンクォークの数がだいたいバランスしている、ということの説明がつくようになります(こんな説明で許してください)。
つまり4つめのクォークがあるはずだ、それは未発見なだけだ、というわけです。
ところで。
クォークにも反物質(反クォーク)が存在します。それも、クォーク一種類ごとに反クォークが一種類存在します。アップクォークには反アップクォークが、ダウンクォークには反ダウンクォークが、ストレンジクォークには反ストレンジクォークが、反物質として存在するのです。
で。
ストレンジクォークと反ダウンクォークが結びついて「中性K中間子」という粒子を作ることがあります。「中性K中間子」は、ダウンクォークと反ストレンジクォークでも作られます(「反」がストレンジとダウンのどっちについているかが違う)。つまり、「中性K中間子」には二通りあるのですが、観測しても、「中性K中間子」がどちらの構成でできているかは判別できません。
で、ストレンジクォークは電子一個分のマイナスの電気(電荷)を放出してアップクォークに変化します。反ストレンジクォークは電子一個分のプラスの電気を放出して反アップクォークに変化します。クォークの構成が変わると「中性K中間子」ではいられなくなりますから、「中性K中間子」は、「ストレンジクォークと反ダウンクォーク」という構成のものも、「ダウンクォークと反ストレンジクォーク」という構成のものも、一定の時間で「中性K中間子」ではなくなってしまうはずです。
そして。
物質と反物質の性質が、ある性質(電荷)だけを除いて同じであるならば、ストレンジクォークが(マイナスの電気を放出して)アップクォークに変化するのと、反ストレンジクォークが(プラスの電気を放出して)反アップクォークに変化するのとでは、時間はまったく同じになるはずです。
ところが、「中性K中間子」の変化を観察すると、「ストレンジクォークがアップクォークに変化する」のと、「反ストレンジクォークが反アップクォークに変化する」のとでは時間が違う、ということがわかってきました(これもこんな説明で許してください)。時間が違う、ということは、変化のしやすさが違う、ということですから、「物質の粒子と、反物質の粒子とでは、変化のしやすさが違う」ということになります。
つまり、ここから、「物質の粒子のほうが変化しにくい」ということが言えれば、この宇宙が物質だけでできている説明が可能になります。
この、「中性K中間子」で明らかになった「物質の変化のしやすさと反物質の変化のしやすさには差がある」という現象を、「アップクォークにも、ダウンクォークにとってのストレンジクォークに相当する「お仲間」があるのでは?」という説と結びつけて説明できないか?
この説に基づいて考えたのが、小林誠さんと益川敏英さんでした。
どうやって考えるかというと、カビボ角の理論をもとに考えるわけです。しかし、考えなければならないことはずっと複雑でした。カビボ角のばあいは二つの種類の粒子だけを考えるので、平面にグラフを書いてみたとしたらその角度は、という考えで理論化できます。しかし、「まだ見つかっていないけれど存在するはずのアップクォークのお仲間」が存在するとすれば、変化する先が増えるので、角度でたとえるとしても「三次元の角」というのを考えなければならなくなります。
そして、この説に基づいて計算して見ても、どうしても計算は合わなかった。
それで、行き詰まっているときに、「未発見のクォークが1種類ではなく、3種類あれば、理論は完成するのでは?」と思いついたのが益川さんだったということです。いま確かめられないのですが、お風呂に入っていて思いついて、それを電話で小林さんに伝えた、というような逸話があったように記憶しています。
こうなると、四次元の角というのを考えなければいけないので、計算がめちゃくちゃ難しくなります。
ちなみに、高校で「行列」(行列式)というのを習って、「数字と変数をカッコに入れて書きかた変えただけじゃん! なんでこんなのを勉強しなきゃいけないんだよ?」と思っている高校生、受験生の方!
ここで小林さんと益川さんがやった計算は行列式がないとできないのです(なくてもできるかも知れないけどめちゃくちゃややこしくなる)。
つまり、行列というのは、大学で物理学をやる上では必須なので。
理系で進学するなら、大学に入るまでにちゃんと身につけましょう。
(とか理系がわからない人間が書いても説得力ないよなぁ……)。
で、「未発見のクォークが3種類」でやってみると、計算が成り立ち、しかも、物質の粒子と反物質の粒子で変化の率が違うという説明も成立した。これを説明する式をカビボ‐小林‐益川行列(CKM行列)という行列式で、この理論を「小林‐益川理論」といいます。
またちなみに、この「変化の率が違う」ということの説明には「虚数」というものが関わってきます。そこで。
「なんで実際に存在しない虚数なんてものを勉強しなきゃいけないんだよ?」と思っている高校生・受験生の方!
虚数はこういうところで使うので、大学に入るまでにちゃんと身につけましょう(ノーベル賞級の研究だけではなく、もっと初歩の電磁力学とかでも使いますよ)。
まだ「アップクォークのお仲間があるはずだけど見つからない」と言っていた時期で、「アップクォークのお仲間があと2種類、ダウンクォークとストレンジクォークのお仲間もあと1種類、見つかっていないけど、存在するはず」という前提で作られたのが小林‐益川理論でした。
これを提唱するのは勇気が要ったと思います。
だいたいクォークモデルすらまだ十分に信頼されていないという時期だったのです。
まもなくアップクォークの「お仲間」は発見されました。チャームクォークといいます。ストレンジクォーク「奇妙な」とペアを組むので「魅惑的な」・「魔法の」ですね。
しかし、アップクォークの「お仲間」が1種類あるはず、という理論は、小林‐益川理論より前からあったので、これだけでは小林‐益川理論が証明されたとは言えません。
そのあと、「ダウンクォークとストレンジクォークのもう一種類のお仲間」も発見され、一挙に小林‐益川理論が成り立つ可能性が上がりました。このクォークはボトムクォークと呼ばれています。あと一種類、アップとチャームのもう一種類のお仲間の発見は1990年代までずれ込みましたが、無事に発見され、トップクォークと名づけられました(というか、トップクォークという名のほうが先にありました)。
これで、小林‐益川理論の「クォークは6種類ある」という説は証明されたのですが、「クォークが6種類あれば、物質の粒子と反物質の粒子で変化の率が違うという現象が発生する」というところはまだ証明されていません。
「中性K中間子」の崩壊は説明できますが、もともとそれを説明するために作った理論なので、それが説明できるのはあたりまえです。
しかし、別の現象の説明ができ、その「別の現象」からも「物質の粒子と反物質の粒子で変化の率が違う」ということが同じように言えるならば、小林‐益川理論は正しい、ということが言えるようになります。その検証には、ダウンクォークと反ボトムクォーク、またはボトムクォークと反ダウンクォークでできている「中性B中間子」が使われました。
この実験のために、筑波の実験施設で、中性B中間子を大量に生成しました(同じ種類の粒子を工場のように大量生産するのでこの実験施設を「Bファクトリー」といいます)。
中性B中間子も「ダウンクォークと反ボトムクォークでできているもの」と「ボトムクォークと反ダウンクォークでできているもの」の区別は観測できません。しかし、それが変化して行くモードを、光が1ミリ進むよりも短い時間で観測すると、もしボトムクォークと反ボトムクォークの変化の率に違いがあれば、観測結果にある偏りが生じるはずなのです。
そして、その偏りが理論が予測するとおりに発見されたので、小林さんと益川さんがノーベル物理学賞を受賞した、というわけです。
では、小林‐益川理論だけで、この宇宙が物質だけでできているということの説明がつくかどうかと言うと、まだよくわかっていません。たとえば、スファレロンと呼ばれる、「空間の相転移」の一種が関係しているとも言われます。また、「大統一理論」という理論で物質と反物質の偏りが生まれる可能性もあり、その「大統一理論」はいまも「カミオカンデ」系列の実験装置などで検証が進められています。
益川さんが書いておられたことで、他に印象が残っているのが、人間が乗った宇宙機の内部の気温をどうコントロールするか、というお話です。
地球のすぐ外の宇宙では、太陽に照らされるとめちゃくちゃ熱くなりますし、太陽が照っていないほうは宇宙の温度(マイナス200度よりも低い)になってしまうので、ほうっておくと、一つの宇宙機の太陽側と日陰側で200度とかの温度差ができてしまう。無人ならば回転させてまんべんなく太陽が当たるようにすればいいのですが、人間が乗っているのでそれはできない。そこで、アンモニアが、熱いところでは気化し、冷たいところでは液体になり、液体になると毛細管現象で熱いほうに戻って行くという性質を利用して、毛細管現象が働きやすいように内側に細かい網を張った金属パイプにアンモニアを封じ込めて宇宙機の壁にそのパイプをめぐらせる、という方法で、内部の温度を均等にした。
そして、その技術は、すぐにステレオのアンプを冷やす技術として応用された。
宇宙機の熱をどうやってコントロールするかなんておよそ一般社会に役立ちそうにない技術ですが、それが日常的に使う音響機材に応用される。どんな特殊な発明がめぐりめぐって日常生活に役立つかわからない。科学の発明とか発見とかはそういうものなのだから、「日常に役に立つ/役に立たない」というところで最初から決めつけるものではない、という実例だったと思います。
できれば、益川先生には、宇宙が物質だけでできている事情がもっとよくわかるまで、この世で見届けていただきたかった、と思います。
このささやかな文章をもって、私のお別れのことばとさせていただくことにします。
益川先生ありがとうございました。