猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

リバタリアン vs コミュニタリアン

 私はもともとでかい声で主張しないと権利が通らない(偏見かも知れないけど)アメリカ的自由市場主義が嫌いで、したがってリバタリアニズムが嫌いだったのだけど、ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』を読み進む(……って一か月前から読んで100ページ行ってないんですけど……)うちになんか考えが変わってきた。ノージック先生ご自身がなんか最初はこんな考えかた嫌いだったとか最初に書いてるし――このままではリバタリアニズムにはまるかもとかいう予感が……。
 まだ最初の部分(3章の途中まで)しか読んでないんだけど、ともかくノージックの考える道筋がSF的というかアニメ的というか、本論の文脈が追えなくても(追えないのだが……)まずそういうのが楽しい。実際、ここに出てくる「経験機械」の話なんて『マトリックス』の設定そのものみたいな感じだし。あと、「どうしてもバットを振りたいんだ〜っ!!」とか言って、バットを振れる唯一の場所に来てみたら、そこに牛がいました。さあどうする? いちばん、バットを振るのをがまんしてストレスをためる、にばん、バットを振って牛をぶち殺す……みたいな話が出てくるのだけど――なんかねー、『スクラン』的で笑える。天満なら、播磨なら、沢近なら、美琴ちゃんなら……と、各キャラで対応をシミュレーションしてみたい気にもなる。『天満ちゃんと学ぶリバタリアニズム』とか作ったらおもしろいんじゃないかな。
 もちろんこういうことを書いているのはノージックを貶めたいのではなくて、当然ながら、逆だ。こういうSFやギャグアニメ的なことを考える先生の書くことだから、難しくても読んでみようという気になるし、結論に賛成できるかどうかは別として、考察の過程自体は信じたい気にもなる。
 私はもともとコミュニタリアニズムのほうに心情的に味方してきたし、そういう気もちはいまもあるのだけど、「社会人」をけっこうやってきてようやく気づいたのは、コミュニタリアン的な「対話による合意」というのを本気で信じているのは上層部のエリートの人たちだけだよ――というか、そういうばあいが多いということだ。実質的に上層部だけで決めたことを、上層部の人たちが、その権威っぽいところとその権威についてくる責任を避けるために「みんなで決めたことでしょ?」とか「あなたも合意して決めたことでしょ?」とかいう形式を整える。しかも、実質的に決定した人たちはほんとうに「自分たちだけで決めたのではない」と思いこんで、自分たちの作ったフィクションのトゥルービリーバーになっちゃうんですよね。そういう「形式コミュニタリアニズム」というか「頽落型コミュニタリアニズム」というのがねぇ……けっこうあるような気がするんですよ。
 というわけで今回はじつは毒吐きでした。