猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

SLあそBOY運転終了

 ジェイアール九州がついにSL列車「あそBOY」の運転を打ち切ると、知り合いの鉄道好きに教えてもらった。
 まあ1920年代前半に生まれた8620型だもんなぁ。戦艦長門とかと同じ時代だ(またそういうネタか(^^;)。普通なら耐用年数を過ぎている。
 NHKの番組で、インドのダージリン・ヒマラヤ鉄道が百年以上前の小型蒸気機関車をいまだに現役で使いつづけているという話をやっていた。サドルタンクの小型蒸機だった。部品は鉄道の工場で自作しているようだ。
 それができるのは、国内外で鉄道を財政的に支えるサポーターが広く存在しているからで、鉄道自体は赤字だということだった。この鉄道に限らず、イギリスではボランティアに支えられた蒸気鉄道がいまも残っているらしい。日本にも大井川鐵道のようにボランティアに支えられた保存鉄道はあるけれど、そんなに数は多くない。
 ヨーロッパの保存鉄道やLRTの普及の話をきくと、やっぱり「鉄道」というものへの意識がヨーロッパと日本とでは違うんだろうなと思う。鉄道が、地域や国や、ひいては世界の人たちのみんなのものだという意識がヨーロッパにはあるのだろう。
 それに対して、日本では、鉄道はまず利用者のもので、同じ地域に住んでいてもその鉄道を使わないひとには何の関心も持たれない存在だ。敵意を持たれることもある。うるさいし、蒸気機関車だったら煤煙もひどい。しかも、列車の運転が終わった夜も保線作業とかでうるさいことがある。踏切のせいで交通渋滞も発生する。
 日本には、鉄道が選挙で有権者の票に集めるために利用されてきた過去がある。だから、鉄道ができてから、その鉄道を地域にとってどう使いやすいものにしていくかということに、政治は必ずしも関心を払ってこなかった。それよりは新たに自動車道路を引くほうがよほど票になったからだ。また、近代日本の地域社会のあり方そのものが、「自分は使わないけど鉄道は地域にとってたいせつなものだ」という意識を育まなかったのかも知れない。
 それは社会の違いだから「だから日本はダメだ」などというつもりはまったくない。
 でも、鉄道が利用者だけに支えられていることで、利用者に嫌われたら鉄道は終わりだという感覚が生まれ(もちろん「鉄道は利用者に支えられているから利用者本位で考える」というのは必要な発想だと思うけど)、そこから無理なダイヤ編成とか現場への過剰なプレッシャーが生まれるのならば、それはやっぱりまずいのではないかとは思う。