猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

『生命の星・エウロパ』のつづき

 先月26日の日記 id:r_kiyose:20050626 のつづき。
 この本で「生命」を宇宙に普遍的な現象として見ている。そういう発想が出てくるのは、一つは「生命→私たちと同じような知的生命」という連想をいったん断ってみるところからだ。
 この本で、著者の長沼さんは、地球上の生物をさかのぼれるかぎりまでさかのぼった共通祖先である細胞「LUCA」がすでに酸素呼吸に対応できる仕組みを持っていた可能性を指摘している。地球上に生命が現れたときには単体の酸素など存在しなかったし、LUCAのような原始的な細胞にとって酸素は猛毒のはずなのに(いまでも「活性酸素は老化の元凶」とか言われますよね)、すでにその「毒」を利用して生き延びる仕組みを持っていたというのだ。「知的生命」になるための道は狭いかも知れない。しかし、生命そのものは、単純な体制(身体の仕組み)の段階で、さまざまな環境に対応できる能力を持っていた。まだ隕石が大量にぼかすか落下し、月はまだ地球のそばにあって、海水はもとより地球そのものにも大きな「満ち引き」作用を起こしている苛酷な環境の下で、そんな生命が生まれた。「私たちと同じような知的生命」というぜいたくを言わなければ、生命が存在しうる環境の範囲は広い。表面が凍りついていても海底に液体の水があればその海底に、表面が灼熱の大地でも地下何キロメートルかの岩石が水を含んでいればその岩の割れ目に、生命は存在しているかも知れないと言うわけだ。
 また、「知的生命」がいるとしても、それが「私たちのような」生命であるとは限らない。たとえば、本文にも引用されている『惑星ソラリス』(すみません。観たことありません。なんかすごい長いという話は聴いてるんですけど……)みたいに、惑星の生命系全体がネットワークを作って、それが「知能」を持っていると言うことはありうるわけだ。『風の谷のナウシカ』(マンガ版)のように、粘菌みたいなものが集合体を作って知能を担っているかもしれない。
 で、この本では、「生命」を、物質が「酸化」していく一つのパターンと捉えている。「酸化」とは「その物質の分子(分子を構成する一部の原子)が電子を失うこと」で、これがわかりにくい。
 高校のときには、化学反応でどちらが酸化でどちらが還元かこんがらがって最後までわからなかった。わかりにくい一因は、「酸化する(自分は還元される)」と「酸化される」の区別がはっきりしないからではないかと思う。こういうところで「理科嫌い」が進むんだなぁ。で、この本では、すごくかんたんに「水素がくっつくと還元、酸素がくっつくと酸化」としていて、こういうところでこの本には好感が持てる。そこから拡張して、水素が取れると「酸化」、酸素が剥がれると「還元」、酸素と同じような役割を果たすもの(塩素とか硫黄とか)がくっつくと「酸化」、水素と同じような役割を果たすもの(ナトリウムとかカルシウムとか)がくっつくと「還元」になるということになる。炭素に水素がくっついてメタンになると「還元」、炭素に酸素がくっついて二酸化炭素になると「酸化」ということになる……のかな? じゃあ酸素と水素一個ずつの水酸基がくっついてアルコールになるとどうなるんだろう……。
 で、その「酸化」の速度が速いと、それは燃焼という激しい化学反応になる。さらに速いと爆発になる。これでは「生命」として持続できない。持続できないと「生命」ではないからだ。他方で、あまり「酸化」のスピードが遅いと、ときどき反応が起こってじーっと止まってというのが気まぐれに続くだけで、これも「生命」とは言いにくい。適度な速さで「酸化」が持続的に起こるとき、一つの構造が長い時間存在しつづけることがある。それが「生命」だというのがこの本の立場である。
 ただ、どの程度が「速い」かというと環境にもよるわけで、すごくエネルギーの落差が大きくて、しかもそのエネルギー落差を保ちつづけられるだけの巨大エネルギーが供給されつづけているとすれば、爆発爆発爆発……という爆発の連続でも構造が持続できるかも知れず、そうすると「爆発しつづける生命」などというのも存在するかも知れない。ただ、まあ、「酸化還元反応」という条件があるので、そういう場所はけっこう限られてくるかも知れない。もしかすると、冷え切った巨星の残骸で、なんかの拍子で表面に酸素大気があり、そこに残骸からつねに水素が大量に湧き出しつづけ、それがもう何億年も続いている(またはその逆)とかなら、「爆発しつづける生命」もあるかも知れないなぁ。
 そういう「適度の酸化のスピード」が持続的に生じる場所ならば、どこにでも「生命」のチャンスがある。この本の生命観はそういうもののように思う。
 日本(とりあえず奈良時代に日本国の領域だった地方)の「神」観にそれは似ているように思う。森はほうっておいたら繁茂して、手に負えなくなってしまう。だから、ある程度は森を切り開いて場所を整備してお祭りないと、神様は降ってくれない。それが日本の「神」観だと、建築家・建築史家の藤森照信さんが書いていた。「生命」というのはほうっておいても繁茂するものだ――という、ある意味での「楽観」が、この「エウロパ生命探査」の本にも共通しているように思ったのだ。