猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

大澤真幸『文明の内なる衝突』NHKブックス、isbn:4140019433

 私がこの本の存在を知ったのは、東浩紀大澤真幸自由を考える』(同じくNHKブックス)に収められている最初の対談がこの本の出版を記念して行われたものだったからだ。
 あとがきに「本書は9・11テロの衝撃のもとで書かれた」とある。たしかに、事件に衝撃を受けて、事件を解釈し、事件の背後にある思想状況になんとか出口を示そうとして一気呵成に書いたという、その熱気っぽいものは伝わってくる。失礼を顧みずに正直に書くと、もしかすると、ヨーロッパ発の社会科学でその教養の基盤を作ったはずの大澤さんが、「イスラーム」にかかわる内容に自分の著書でここまで深く言及することは、この大規模テロ事件がなければなかったことなのかも知れない。
 で、失礼を顧みずにさらに感じたことを書くと、それでも、小杉泰さんの『イスラームとは何か』(講談社現代新書isbn:4061492101)と、池内恵さんの『現代アラブの社会思想』(同じく講談社現代新書isbn:4061495887、池内さんの近刊は『アラブ政治の今を読む』中央公論新社isbn:4120034917)と、そのほか数冊の本で、「イスラーム」について語るのでいいのかな、という気もした。
 たしかに、私も読んだ範囲で言うと、ちゃんと読んでいるとは思うし、不適切な引用とか自分勝手な解釈とかはないと思う。最近の動向に合わせて、「イスラム」・「コーラン」ではなく「イスラーム」・「クルアーン」と書いているのにも感服する。
 でも、たとえば小杉さんと池内さんでは、現在の「イスラーム」が抱える問題についての理解も、それをどう見るかというスタンスも違う。
 小杉さんの本は、基本的に「イスラーム」の理念的な面に着目し、それを体系的に解説している本だ。私たちが「イスラーム」について断片的に見聞きして、印象論で「これはヘンだ」と思うようなものごとが、「イスラーム」の体系からは論理的・整合的に説明できることを論じている。小杉さんは健全な「イスラーム復興」の将来に希望を持っているように見える。過激でテロを肯定する「イスラム原理主義」を中心に「イスラーム復興」を見る姿勢には反対の立場だ。
 それに対して、池内さんの『現代アラブの社会思想』は、現在のアラブ思想が陥っている病理状況を描いた本だ。アラブ・ナショナリズムも、社会主義も、希望を与えてくれる社会思想でなくなった現在、アラブの思想は、たんにイスラム原理主義に傾斜しているだけでなく、陰謀論かつ「トンデモ」的議論に走りつつある。まじめな国際情勢についての本に、バミューダトライアングルからUFOが来てどうのこうのという、いまどき「と学会」でも相手にしないような議論が書いてあったりするらしい。池内さんは、そういう「思想のドン詰まり状況」に注目し、過激なイスラム原理主義イスラム圏に蔓延するのにはそれなりに思想的基盤があることを指摘している。小杉さんに較べると、その将来にはかなり悲観的だ。
 方向性の違うその二つの業績を、「イスラーム」についての他の業績も交えてつなぎ合わせたうえで、イスラム教(イスラーム)が持っている「基本義務としての喜捨」に現在の「大規模テロ状況下」の世界の救いの道を見つけるというのは、言ってしまえばかなり乱暴な議論なんじゃないかと思う。
 でも、その「乱暴さ」こそが、この本の存在意義であり、大げさな言いかたをすると、この本の「生命」なのではないかと思う。
 大澤さんは、池内さんの指摘するアラブ社会の思想的ドン詰まり状況を認めつつ、じつは資本主義世界だってじつは思想的には同じドン詰まり状況にあることを解き明かす(こっちは大澤さんの得意のフィールドだ)。資本主義も「イスラーム」と同じで宗教としての本質を持っているし、それがドン詰まり状況であるのも同じだ。だから、アメリカ社会が「イスラーム原理主義テロリストに怯えるのは、じつは自分自身に「イスラーム原理主義とよく似たダークサイドがあることへの怯えなのだ。そういう認識にもとづいて、大澤さんは、アメリカ(合衆国)を中心とする現代資本主義と「イスラーム」圏とが抱える問題をともに解決する(弁証法的言いかたをすれば「止揚」する)方法を構想する。
 大澤さんは、自分が属している現代思想や現代哲学の共同体にとって、アラブや「イスラーム」の知的共同体の「ドン詰まり状況」が他人事でないと認識しているようだ。「ドン詰まり状況」の共感のなかから、懸命に「出口」を探ろうとする。この本の「乱暴さ」はその熱気と一体のように私には思えた。
 でも、なんでこの本の出版記念の対談相手が、池内さんや小杉さんじゃなくて、東浩紀さんだったのかなぁ? いや、私は東さんの書いたものには関心があるし、だいたいこの対談相手が東さんでなければこの本の存在にはあまり関心を払っていなかっただろうから、私個人に関してはそれでよかったと思うんだけど……。
 ちなみに、この本は10月に三度めの尾道探訪に行ったときに持って行って、読んでいた。飛行機が羽田空港を定時に出た……のはいいんだけど、滑走路で止まってしまってなかなか動かず、いらいらしているときに「自由の三幅対」のところを読んでいた。そのときの機内の情景を、いまでも鮮明に思い出す。まあ、べつに変わったことがあったわけではないのだけど(変わったことがあったらたいへんだが……でも考えてみれば旅客機に乗りながら9・11テロの話を読んでいたのだから、あとから考えればそのことをもうちょっと意識してもよかったかも知れないけど)。