猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

逸身喜一郎『ラテン語のはなし』(大修館書店、isbn:4469212628)

 「通読できるラテン語文法」という副題に引かれて買った。
 この本は東大のラテン語の先生が、授業中の「雑談」をつなぎ合わせて綴った「ラテン語世界への入門の本」だ。
 現在、中学校や、ばあいによっては小学校や幼稚園でいきなり教えられる英語はともかく、フランス語とかドイツ語とか中国語とかタイ語とかを学ぼうと思う学生とか社会人とかは、そのことばについて、または、そのことばが話されている地域やそこの社会について、何か知ってはいるものだ。たとえ、それが「ヨーロッパのことばは英語で懲りたから中国語」といういいかげんなものであっても、また、「中国語は日本語と漢字が共通だから楽だろう」とかいうすごくとんでもない勘違いであっても、だ。ちなみにそんな動機で(まあそれだけでもないけど)大学に入るときに第二外国語に中国語を選んだ人間の一人が私である。
 ところが、ラテン語というのは、どんなことばか、どんな社会で話されていたかは、なかなかわからない。そこで、ラテン語が使われていた社会を紹介しながら、ラテン語の文法もひととおりぜんぶ紹介しようというのがこの本の趣旨のようだ。
 で、この本は、ふた通りの読みかたができると思う。
 一つは、ラテン語のフレーズや名詞・動詞変化表を飛ばして読み、ラテン語には名詞に「格」が6つあるとか、人称変化がやたらとうるさいくせに「彼」・「彼女」にあたる代名詞がないとか(まあたぶん、人称変化がうるさいから、「彼」・「彼女」と言わなくてもわかるので消滅したんだろうけど)、カエサル(シーザー、教会式でチェサル)暗殺後にオクタウィアヌス(長音省略)とアントニウスレピドゥスが行った「三頭政治」の正式名称が「国家再建委員会」というなんか今日でもどこかの国でクーデター政権が使いそうな名まえだったとか、そういう「どうでもいいようなこと」を拾い読みしていくという読みかただ。
 もう一つは、この本に出てくるラテン語のフレーズや変化表を、丹念に辞書を引きながら読むという「教科書」としての読みかただ。なぜ辞書を引かなければいけないか? この本のラテン語表記には、たいていの入門書にはちゃんと書いてある長短音の区別が書いてないのだ。しかしラテン語には長音と短音の区別がある。最近、「イスラーム」に関心を持つ人たちが、アラビア語では長音と短音の区別があるので「イスラム」は正しくなく「イスラーム」が正しいと主張している。これと同じ長音と短音の区別がラテン語にもある。きちんと区別しないと、単語の意味が違ってしまったり、名詞の「〜が」と「〜から」を混同してしまったりする。
 しかも、困ったことに、ラテン語では、ローマ字綴りにこの長音と短音の区別が表記されない。そこで入門書には長音の上に棒が引いてあるのだけど、この本にはそれがない。したがって、ここに出てくるラテン語のフレーズを暗記しようとしたら、辞書を引くしかないのだ。しかも、「格変化」(英語のI-my-meとかのたぐい)とかで語尾にくっつく部分にも長短音の区別がある。「格変化」とか動詞の語尾変化とかで変化した形は辞書に載ってないので、辞書でまずそのことばの基本形の長短音の区別を確かめたあと、辞書の後ろの名詞・形容詞変化表とか代名詞変化表とか動詞変化表(これが一つの動詞で2ページにもわたっている!)とかでさらに語尾の長短音の区別を確認しなければならない。これをぜんぶやって、さらにこの本に引用されているラテン語の「名文句」を暗記すれば、読み終えたときにはラテン語の初級は十分に修了したことになるんじゃないだろうか。よくわからないけど。それにしても、語尾は「にょ」とか「にゅ」とかいう簡潔なものがいいです。と思ってたらこんどはその語尾も消滅するの?
 というわけで、私は最初のほうの読みかたをしたので、この本ではラテン語はぜんぜん身につかなかった。でも、冥王星「降格」事件のときにちょうど惑星名の起源のところを読んでいたので、せっかくウラノス‐サターン‐ジュピターが祖父‐父‐子の関係で、ジュピター‐ネプチューンプルートーが兄弟どうしでうまくいってるのに、プルートーだけ格下げすることないでしょ、というような議論に活かさせていただいた。
 ところで、逸身さんは、「シーザー」を日本語の文章で「カエサル」と書いたり、同じ「チャールズ」という名まえをイギリス人なら「チャールズ」、ドイツ人なら「カール」、フランス人なら「シャルル」、スペイン人なら「カルロス」と書き分けたりするような原語主義を「神経質なまで」と評していて、批判的である。これで「神経質」だったら、先に書いた「イスラム」はだめで「イスラーム」と書くべきだなどという主張はどうなるんだろう?
 で、昨日書いたこととのつながりで言うと、私はこの逸身さんの主張に賛成である(ちなみに、昨日書いた「英語式ラテン語」の「Veni ヴィーニー, vidi ヴァイディー, vici ヴァイシー」という発音はこの本から拾いました)。
 日本人が「シーザー」について知っていることの大部分は、たぶんシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』経由の知識だろう。シーザーが「この日だけはやめておけ」と言われていたのに「おれは迷信は信じない」とか言って出かけていったらやっぱり殺されたとか、「ブルータス、おまえもか?」という名文句とか、最初にブルータスが正しいと思っていた民衆がアントニーアントニウス)の巧みな演説に乗せられてブルータス一派に敵意をむき出しにする場面とか、そういういろんな名セリフ、名場面とともに、「シーザー」の名は知られていた。検証はしていないけど、たぶんそうだろうと思う。
 逸身さんは、「カエサル」という「正しい」発音が定着し、「シーザー」が忘れられるとしたら、それは日本人がローマ文化を理解したことを意味する可能性は非常に少なく、むしろ、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の日本語訳をもとにして知っていたさまざまな知識が失われたことを意味するだろう、と書いている。私もそう思う。