猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

8月19日更新

 今回も前回の続きで平勢隆郎『都市国家から中華へ』の4回めです。最初は3回連載のつもりが、4回連載になり、4回でも完結しませんでした。

 今回、採り上げたところでおもしろかったのは、「徳治主義」の話かな。支配者は人に心服されるような立派な人格を備えていなければならないというのが「徳治主義」で、それは「力で支配するのはよくない」という議論につながって行く。では、その「徳治主義」を言い出したのはだれかというと、じつは、これまでの説明のしかたではどうやっても自分の支配が正しい支配だと説明できないような連中――つまり「力による支配」で支配者の地位にのし上がったような連中だった。支配者の地位を獲得するまではむき出しの力を使っておいて、支配者になったら「立派な人格で支配するんだ」と言う。……これが政治権力の本質――なのかなぁ。
 そういうことは、西洋近代政治思想の流れでは、マキャヴェリが「君主は有徳である必要はなく、有徳そうに見えることが必要なのだ」と言った時点で暴露されてしまっている。だけど、やはりずっと「徳治主義」を信じてきた日本の知的風土では、いまでも「支配者は立派な人格で支配する」という信念が信じられているのではないかと思うことがある。織田‐豊臣‐徳川の天下取りでも、いちばん派手さがなくておとなしそうで忍耐強い(ただし老獪な)徳川が最後に勝つという話になっているものね。
 いや、ヨーロッパでだって、学者はマキャヴェリを尊重したりするけど、一般社会ではやっぱりマキャヴェリとかの考えは十分に受け入れられていないのではないだろうか。よく知らないけど。
 日本の「民主主義」は、日本の村の伝統的な「寄合」の延長上に根づいているというのが私のけっこう頑固な仮説なのだけれど(「全員一致するまでともかく議論をつづけるのが民主的」)、もう一つ、この儒教の「徳治主義」というのも、日本の民主主義の質を決めているんじゃないかと、この評を書いていて思いあたった。このへんの話題はまたここで採り上げたいと思う。