猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「社会契約」の原型

 前にも採り上げた(id:r_kiyose:20060923)江澤増雄『教会ラテン語への招き』のなかに、「聖体拝領」という儀式の説明がある。カトリック信者でない私には「聖体拝領」というのが具体的にはよくわからないけれど、パンと葡萄酒をキリストの血と肉としていただいて、キリストと一体化するという儀式らしい。
 で、「聖体拝領」は communio(コンムニオ) というラテン語の訳語だ。しかし、 communio ということばを「聖体拝領」とだけ理解してはいけない。第一に、 communio はほかにも「交わり」・「一致」などとも訳されていて、「聖体拝領」だけが communio ではない。第二に、なぜパンと葡萄酒をいただくことに意義があるのかが、 communio というラテン語では理解できるけれど、「聖体拝領」ではわからなくなってしまう。だから、カトリック信者はラテン語を知っておいたほうがいい、少なくとも聖職者は知っておくべきなのだ、という文脈で出てくる。
 このご主張は、まあ正直に言ってしまえば、カトリック信者でない私にはどちらでもよい。というより、仏教徒の私が「そうだ、カトリック信者はラテン語を学ぶべきだ」と言って、「じゃあ仏教信者もサンスクリットを学べば?」と言い返されたらすごく困る。
 ただ、ここで私が「おおっ!」と思ったのは、では、「聖体拝領」では表現しきれない communio の重要な意義とは何か、ということだ(27ページ。文中のラテン語・英語の一部は省き、長音符・アクセントも省略した)。


 つまり、あえて簡単に言えば、“communio”とは「共に」「ひとつになること、一致すること」に外なりません。カトリック教会は、信徒が「キリストの体」を頂いてキリストに一致し、キリストに一致することによって「キリストの体」を形作るすべての信徒が一致するという神秘を“communio”と表現しているのです。
 私はこれを読んでホッブズの『リヴァイアサン』の原書の表紙絵(扉絵?)を思い出した。むろん私などが『リヴァイアサン』の原書の実物など見たことがあるはずもないが、この表紙絵はあちこちに引用されている。下のほうにたくさん人間が(町も? よく覚えていない)ぞろぞろと描かれているのだけど、上のほうまで見上げていくと、そのたくさんの人間がじつは巨大な王様の身体の一部になっているという図柄だ。この絵のことはネグリとハートの『マルチチュード』でも言及されていたと思う。最初に見たときには、なんか王様の巨大さが怪獣っぽくてへんな感じがした。でもいいのか。「リヴァイアサン」って怪獣だし。
 で、カトリック信者は、キリストの血と肉をいただくことによって、キリストと一体化し、キリストの身体の一部になる。信者にとって、カトリック信者の共同体とは、この communio によって構成されたキリストの身体なのだろう。
 この原理から「神」とか「キリスト」とかをはずして、かわりに政治体を持ってくる。それがホッブズのいう社会契約なのではないか。人間は、社会契約によって「一致」し、万人に対する闘争をやめて巨大なリヴァイアサンの一部になる。そういうことではないのだろうか。
 また、communio というラテン語は、たぶん「コミューン」ということばともつながっているのだろう。「コミューン」によって成り立つ理想社会が「共産主義コミュニズム)」社会である。ということは、共産主義というのもこのカトリック的な考えかたに縁があるのではないか――などと書くと両方から異議がありそうだなぁ。でも、階級の違いをなくしてみんなで「一致」する社会が共産主義社会なのだから、関連はあるんじゃないかと思う。
 それから、パンをキリストの「肉」に見立て、それを口にすることでキリストの身体に一致するという発想である。そういう全世界の信者の「肉」が集まって、キリストの身体である信者共同体が構成される。これで思い出したのが、先に引いたネグリとハートの『マルチチュード』の「肉」ということばの用法だ。一人ひとりの人間は「肉」であり、その「肉」が集まることで(しかし社会契約は結ばないで)変革主体としての「マルチチュード」が目覚める、というような発想だったと思う。この「肉」ということばになんかすごい違和感があった。「肉」が集まって変革主体として動き出すというイメージがなんか生々しくて気もちわるかったのだけど、この communio の解説を読むとなるほどと思う。
 ネグリとハートはホッブズ的な「社会契約」とは違う変革の道を探っているのだけど、発想の基本は似ていて、しかもそれはカトリック教会の考えかたに発する――そう考えてもいいんじゃないだろうか、と思うのだが、どうだろう?
 そして、信仰を持った人間が一致することによって神の身体と一つになるという身体感覚は、私のようなキリスト教信者でない日本人には、かなり自分たちの「神」感覚とは違うように思える。
 私たちの神様は周囲のいたるところにいて、ときには私たちの願いを聞いてくれたり、私たちと関わりを持ったりすることもあるけれど、近くにいながらまったく関係を持たずにただ共存している。私の「神様」感覚はそんな感じである――ってもしかしてこれって『かみちゅ!』の影響? でも『かみちゅ!』の神様感覚って私には身近な感じである。人間は何か願いごとでもないかぎり神様と関わりを持とうとしないし、それどころか神様のことを思い出しもしない。それでも神様のありがたさはよく知っていて、神様に幸せになってほしいとさえ思っている。だからこそ15話=放映版最終回で町のみんながゆりえ様の幸運を願って来福神社に参拝に行く場面が印象的なのだ。
 そういえば、こないだ尾道で開かれた即売会「神様にお願い!―来福神社例大祭―」では、サークル参加者・一般参加者の有志が大人数でいっしょに来福神社のモデルの御袖天満宮にお参りして、拝殿補修費を寄進したりしてきたなぁ。台風接近中の尾道が1話っぽく、みんなでお参りするのが15話っぽかったかな? ところで、大林宣彦監督の映画『転校生』でも知られる御袖天満宮の拝殿は瓦葺きなのだけれど、その屋根の一部が崩れていて(シートで覆ってある)、補修しなければならないということで、現在、神社で寄進を募っている。
 で、私たちの「神様」意識は、どちらかというと神様は私たちの外にたくさんいて、そのなかの一部がときどき私たちに関わりを持つというものだと思う。私たちの身体を神様に一致させたいなどということは思わない。過去にも、神がかりとかきつねつきということはあっても、それはどちらかというと特殊なできごとだったし、人間の身体を神様の身体に一致させるというのとは違うように思う。カトリック信者にとって communio でキリストの身体に一致することは一つの目的なのだろうけど、私たちにとっては、神がかりすることは、ときに(祈祷やお祭りのときなどに)求められたことではあっただろうけれど、それ自体は目的ではないように思う。
 イスラム教(イスラーム)の身体意識も、図像で描けるような神様を厳しく否定している以上は、やっぱりカトリックとは違っていそうである。仏教も違うと思う。もしかすると東方正教カトリックとでも身体の意識は違うかも知れない。かえって、カトリック教会の支配に反発していたホッブズや、宗教否定の共産主義や、最近の「マルチチュード」論にカトリックの発想に近いものを私は感じる。
 思想は論理的に理解できる。すくなくともそういう部分が大きいはずだ。宗教は必ずしも論理的には理解できないが、それでも教理書とかを読んだり信者や詳しいひとの話を聴いたりすれば理解できる。さらに理解しにくいのが身体感覚とか身体意識である。そして、思想が宗教的感覚に基礎を置き、宗教的感覚が身体感覚に基礎を置くという「上部構造‐下部構造」みたいな構造を持っているとすれば?
 そういう構造を持っている、と言い切るつもりは私にはない。しかし、そういう構造を持っている可能性を、政治思想とかを理解しようとするときには私たちは意識しておくべきなのではないかと思う。